2004年6月アーカイブ

人気blogランキングのリンクを記事 footer に一時的に設置しました。
このサービスは2月ごろにオープンしたようで、たまたまその頃に見つけたものですから、なんとなく登録していました。その頃の感想はこちら。

人気 blog ランキング

ここに書いているように、IN/OUT でカウントする方式ってどうよ、というのが当初から変わらない感想なのですが、(後で消すかもしれないので引用しますが)「この記事に幾許かの価値を感じられましたら、クリックしていただけると嬉しいです。(blog ranking)」のような形で、来てくださった方のフィードバックを得るというスタンスで用いると、サイト全体としての評価システムとして、ある程度機能するなぁ、と思ったのでした。

本当は記事毎の評価フィードバックシステムを作っている途中だったりするのでそれまでの繋ぎだったりしますが^^;。

人気 blog ランキング自体はというと、だいぶ登録されている方が増えたようで、ランキング上位の方はこの記事に書いたのと同じように、見てくださる方からのフィードバック手段的な使い方をされる方が多いようです。

以前は Web 拍手を使っていましたが、こちらはここに書いたような理由で外しています。また、記事毎のアクセス数ランキングをつけてみたりしてますが、これは結局のところ記事の評価と直結はしないです(導入の仕方が解らないというご意見をいただいていて心苦しいです_o_)。やっぱり評価フィードバックシステムつくらにゃ。今回はあんまり深く考えてはいないですが、人気 blog ランキングさんから来る方も結構いらっしゃるということでなんとなく試しにやってみました。どうなるかな^^;;。
相変わらずアクセス数が多いココログの方には設置してないので、あまり変わらないかもかもですが^^;。

「匿名性」のない状態では言論の自由は保証できないということがまずおかしい、と思うわけです。
でも、それは現状における現実でもあります。匿名でない場合、本来自由なはずの言論によって、それを発した人が不当な追求/待遇を受けてしまうケースがよくあるからです。

しかし、言論の強者は匿名でなくてもきちんと自由を行使することができています。それは、責任を持つことができるからです。まぁ不当な追求/待遇はやっぱりあるんですが、世の中はそういった境遇の人をただ見捨てることはないし、正当な追求を受けることは単なる自業自得で取るべき責任を取らされているだけですので問題になりません。
言論は自由だから追求するなとか言っちゃったり、自業自得が嫌だから匿名がいい、という人は多数いるわけですが。それって正当ですか?と。

不当な追求について、

言われた「実名の人」の評価や議論の有利不利に影響があるわけではない。本来は…。
問題はこれを「負ける」と思ってしまう、あるいはこれで「勝った」と思ってしまう人々にあるように思うわけです。大きな声(※)しか見ない人々。
※嘘でもインパクトのある内容、とかのことです。マスメディアが得意ですね:p。マスメディアに流されるタイプの人々、と言い変えることもできるわけだ。

こんなことが起こってしまうのは現状の大きな問題(流される社会的評価とでも呼びましょうか)と思ったりするわけですが、啓蒙しても効果のない人は無視するってことで。

まぁ、とにかく^^;、言論の自由に法って意見を述べることに関して、匿名性は必須ではないわけですね。

本来は「匿名での情報発信を認めろ」ではなく、「言論は自由なんだから思想/言論が異端だという理由での不当な圧力をかけるのはやめろ」と言えばいいわけです。匿名を規制することは本質的には不当ではない。なぜ「匿名での情報発信を認めろ」ばかりが横行するんでしょうね。

まぁ、そういう所が空しいわけです。かしこ(男だけどさ)。

(追記)
なんとなく高木さんに trackback してみよっと。きっと似た感覚を持たれてると思い^^;。ってか、やっとはてなへの trackback の仕方が解った…。

double standard:二重基準(あるいは多重基準)

Socius_ダブル・スタンダードという問い(Double Standard:PaperEdition:01)
DOUBLE STANDARD

要するに「公平でない考え方」「自己矛盾」ですね。後者リンクでは「不当な区別」とされています。
そのときどきに応じて自分の都合のよい立場を取るような人を非難する言葉、と言えます。似非動物愛護団体などが典型、ですかね^^;。

私は結構ダブルスタンダード/自己矛盾に関して敏感(=臆病)で、自分の主張に一貫性があるか?自分の言っていることが、他の場面で反対の主張になっていたりしないか?を気にかけています。

でも、いかにもダブルスタンダードに思える考え方を持っていることに気づくこともあります。
そういう時はそれぞれの状況/立場自体の違いと、それぞれの場合の主張の違いの因果を見つめなおして整合性を見つけようとします。で、とりあえずこの日記で書いてきている範囲では、自身の主張に対して説明をつけられるようにしているつもりです。ここに書いている主張を眺めると一見逆の主張をしているように見える箇所もあるんですが、自分の中ではつじつまが合っています。合っていなかったらご指摘いただけましたら訂正します^^;。少なくとも家畜である豚は殺してもいいが他の国で家畜とされている兎を殺すのはダメ、みたいなことを強弁するようなことはしてないと思います。

で、そういう態度を放棄している人が本物のダブルスタンダードだと思います。自分に甘く他人に当たる人に多い特徴です。自分を見つめなおしたり、他人の立場に立ってものを考えることができないので、自己矛盾に気付けません。とはいえ、自分ができていないことは人に言ってはいけないというわけでもないですから、「自分はどうなのよ」という反論は基本的には成り立ちません。これは、その時になされたのが「指摘」なのか「糾弾」なのかによって変わるのではないかと思っています。「自分もできてるわけじゃないけど、これはダメなんじゃないかな」と言うのと、(自分ができてないのに)「こんなことじゃダメでしょ」と言うのとの違いですか^^;。どうでしょうこの感性って。変ですかねぇ?

閑話休題。ダブルスタンダードの話に戻しまして、実際、動物愛護というものも、「人間」としては当たり前のエゴなんですから、そういうのを減らしたいとは思っても無くすのは不可能だなぁ、と思います。ただせめて主張に一貫性は持たせるか、矛盾を自覚したいものです。

普遍的な価値、一般的といえる価値、個人的な価値の境界線の話。m_um_u さんのコメントより、です。

荒らしの人の言い分としてこんなのがありました

「ゴキブリ好きな人間なんているわけねぇよ。一般的にみんなゴキブリ好きなんてのの自由なんて認めてねぇんだよ」(大意)
↑の主張はあきらかに間違っているわけですが、これとは別の次元というか..

たしかに「一般的」に認められる価値と個人的な価値というものの違いはあるように思います

で、思うのですが

一般的な価値(蓋然的に正しいとされる価値)と個人的な価値の違いとはなんだと思いますか?
もしくは、
蓋然性(「ふつう」の価値など)はどのようにして作られていくと思いますか?

続くコメントでのお返事の続きになりますが、一般的な価値=ジョーシキなんでしょうけれど、私、ジョーシキって言葉大嫌いでして。「みんなってアンタと、あと誰?」にも関連しそうですが^^;。でも、こんなことも言っているくらいですから、ジョーシキという言葉は嫌いでも、「そう思う人が多いと思います」とは言う(こともあるだろう)人でもあります。

「ジョーシキ」が多数決論理であることは自明ですが、ジョーシキという言葉の使われ方の実態は、「さっと思い浮かべて同意見の知人が二人以上思い浮かぶ」程度ではないかと思っています。大抵の人はその母集合の偏りには頭が回っていません。

で、私見としては結局、ジョーシキ≠一般的な価値、ということになりますか。「常識」=共通感覚=一般的な価値ですが。


「一般的な価値」は客観的に通用する多数決論理の適用であり、それはきちんと存在しますねぇ。で、「ゴキブリが嫌い」なことは「一般的な価値」でしょうけれど、「ゴキブリ好きの自由を認めない」ことは全く一般的ではありませんね:p。

個人的な価値との違いは、客観性/根拠があるかないか、とベタに結論づけておきます^^;。冒頭の彼には「一般的ってアンタと、あと誰?」と聞いてあげることができますね。まぁ自分の周りから必死にゴキブリ好きを嫌う人を探してくるかもしれませんが^^;。

そのようなわけで、蓋然性の作られ方に関しては、「ジョーシキ」と「一般的な価値」で分けて考えたほうがよいだろうな、とは思いますです。

ぼくとしては相対的ではない普遍的な価値観はあると思うんです。
たとえば、「人を殺してはいけない」とか「美しいもの」とかいう基準ですね

後者のほうはコミュニティによって異なってくるのかもしれませんが..前者のほうはかなり普遍的な価値観だと思います
で、そういったものと相対的な価値観(もしくは個人的価値観)を分けるところはなんなのか、ってこと...

さて、「普遍的な価値」ですが…、個人的には普遍的な価値は存在しないと思っています。所詮は「一般的な価値」の観測上の蓋然性レベルでしかない、と。うーむ…絶対的価値ってのは難しいですね…無いような気もするしあるような気もする…^^;。

と、まぁ、何の研究もしていない普通(:p)の人の感覚で個人的意見を書いてみましたー。

まとめると、世の中には多数の人が同じ感覚を持つと観測された「一般的な価値」と、そのような証明がなされていない「個人的な価値」しか存在しない、ですか。ほんとの所は知りませんけど^^;。

この記事から派生する「ジョーシキとは?」も興味深いんですが、その前に知らないほうが幸せか?の関連を。

私は「知らないほうが幸せなことなどない」と考えるような人ではありますが、「関わらない方が幸せなことはいっぱいある」と思っているわけです。

知ったことで責任が発生するわけではない(※)が、関わる、言い換えると自分から何らかのアクションを起こしてしまった場合、それに対する責任は絶対に存在します。以降、ネット界隈で例示しますが、ネット以外でも当てはまるでしょう。

フレーミングに対して何らかのコメントを入れること、これは当人達に見える場所でなかったとしても、Web 等の不特定他者が知り得る場所で行った場合は、そのフレームに参加したとみなされても仕方がありません。なぜなら、そのコメントに対していつ当事者を含む他者からの言及があるか解らないのですから。
インターネットで「陰口」は叩けないのです。注:リンク先記事は「陰口」を、当人に見えない場所での「中傷」と定義しています。こっちの記事では批判か中傷かの区別はしていませんが、大意は汲んでくださいませ^^;。

そして、そうやって返ってきた反応に対してどうするかを考える時間が有意義か否かが、当人の幸福観によって変わってきます。

また、blog などでいろんな人の赤裸々や心の闇を見つけたりした時、当人に対して何かコメントをすることはどうでしょう?これは結構責任を感じる人も多いのではないでしょうか。その人の幸福を(当人としては)願うコメントを出してしまったばっかりに、あり体に言えば後始末を余儀なくされる可能性、またそうせざるを得なくなった場合に自分は幸福ではないと感じるケース。
ずれてるけど関連している議論が「儀礼的無関心」ですかね。

私はいずれの場合も関わったことが幸福かはケースバイケースとしか言えませんが^^;。後悔はしない人なので、もし特殊な人と関わってしまっても不幸とは考えませんが、関わらない方が相手にとって幸福だったなと思う場合は、「あぁ、しまったなぁ」と思ったりはします。

上記はどちらかというとネガティブなコメントを出すケースについてですが、たとえそうでなくても、相手がどんな反応をしてくるかは予測できないということで、関わることで不幸になることを恐れてコミュニケーションを始めたがらない人も多数いると思います。

じゃぁ、「関わられることの不幸」はどうでしょう?自分の blog への招かれざる客、ですか。まぁ、自分が来て欲しくないと思っている類いの人がやってきて幸福なはずがないわけですが^^;。これは私としては、「来て欲しくないと思うな」と言いたい所(自分はそうだし)ですが。私は誰かが自分に関わろうとすることは、ちゃんと自分への言及を伴っているなら如何なるケースにおいても幸福と考えるのですが、ネガティブな関わられ方だけは嫌うとか、たとえポジティブであってもつまらない関わられ方を嫌うというほうが普通の感覚だろうとも思うので、自分から誰かに関わるケースにおいてはそうとは限らないというのが実情ですね。

まぁ、これって、表題の「関わらない方が幸せか?」の立場を変えただけの話で、「相手は関わられることを幸せと思うか?」という問いなわけですが。もう一つ、「自分が関わったことによって相手が幸福や不孝を感じることが自分にとって幸せか?」とも言い換えられますか。

とりあえず問題提起レベルで。誰か整理してくれないかなぁ、なんて^^;。

※実際には、知っていることで責任が発生するケースもあります。「未必の故意」です。知っているにもかかわらず、すべきこと/やめるべきことをしなかったという奴ですね。また、「過失」というのがあります。こちらは、知らなかった場合でも責任が追及されます。「過失」は「知ってしまったせい」という相関が無いので除外されますが、「未必の故意」は知っていたか知らなかったかが関係してきます。でも、これにあてはまるケースは「知」全体からみると希と思います。もちろん「無知に対する責任」はまた話が違いますが。

高木さん崎山さん関連。崎山さんの主張はまだよく読んでないですが、ここ数回のやりとりにおいては、どうも高木さんの文脈を読み取っていらっしゃらない風。でもちゃんと読んでないので控えます_o_。で、その感想から。

高木氏は「通信の秘密」を持ち出すのは不当としてますけど、「匿名での情報発信」「言論の自由」を持ち出すなら、「通信の秘密」を持ち出す事は私は妥当と思います!
「通信の秘密」との関係として、「通信の秘密」には「匿名による表現の自由」の側面も含まれているから、公衆送信に係る発信者情報についても「通信の秘密」の保護の対象となる思う。
でも、「通信の秘密」は憲法で保障されているけど、違法な内容を「表現する自由」まではふくまれてないはず・・・・
著作権侵害に該当する場合でも、「通信の秘密」や「匿名による表現の自由」は保護されるべきと思います。


崎山さんが同様の主張なのかは知らないですが、どうも「自由」の意味を誤解されているような気がします。
この辺で書いた通り、「自由」は「不当な規制」を許さないという意味と考えますし、憲法におけるそれもそれが正しい定義と思っています。

それを前提に考えれば、「通信の秘密」(通信を覗き見してはいけない)と「言論/表現の自由」(意見表明を規制してはいけない)が混同されようがないように思うのですが。

で、違法な内容を表現することが規制されるのは、自由を保証する代わりに、その責任を持てということですよね。責任を取らない人からはいずれ自由が剥奪されるわけですから、その段階になって自由を主張しても遅いということになります。

当然のごとく、論点は「規制の拡大解釈あるいは程度」になり、規制/罰則によって正当な「言論/表現の自由」が侵害されてはならないわけですが、匿名での発信が必須の表現(しかもこの文脈ではコンテンツ配信に限定されている)って何があるんでしょう?その答えが出されないまま、高木さんにとっては既に区別済みである「匿名での言論」や、区別どころか全く無関係な「通信の秘密」を盾に反論しているのではないか?とよく読めていないながらに危惧しています。

参考:インターネット知:文脈が読み取れなくなる人々
まぁ、この記事は背景となるやりとりをそこまできっちり読み取れていないので、自分も当てはまってるかもしれませんが、指摘を受ければ訂正いたしますです_o_。

如何様にも:知った者の責任

知ったことによって重い重い現実が目前に迫ることはよくあること。
知らなければ考えなくて済んだこと。

知らずにいて、考えずにいたほうが幸せか?

さぁ?
幸せと思う人も不幸と思う人もいるんです。
私は知らないことは不幸と思っています。

楽しいことだけ考えていたほうが幸せという人ももちろんたくさんいます。一般的にはそちらのほうが解でしょう。

知ってしまうと何かしないといけない、と考える方もいらっしゃいます。私は、知ってしまったから何かしないといけないわけではないと思っています。

知っているから何もしないでいることができます。知らないせいで、知っていればこんなことしなかったのに、と思うようなことをしてしまっていたりします。侮辱/差別。

と、こんなことを考えさせられる記事でした。:)
幸福は当人の感情の安定ですから、当然のごとく一般解は無いわけで、何が言いたいかというと、知らない方が幸せなことなんて何一つないと思ってるような人もいるってことです^^;。

送り出した人が実は不幸な目にあっていた、とか、尊敬する故人が実は生前とんでもないことをしていた、という類いのことは知らないほうがいい?まぁ、一生会うことの無い人ならそうかもですが…。取り合えず私は騙すのも騙されるのも好きじゃないな^^;。

知人においらクリップの存在を知らなかったと言われ、がーん。

なので、苦し紛れにここに書いてみます^^;。
普遍的に価値があり、紹介の価値もあると思うページをクリップしています。

RSS は以下です。
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で、昨日今日と書きすぎたので、小休止しよっと^^;。
さて、飲みに行こ。

はてなダイアリー - 高木浩光@茨城県つくば市 の日記:「消費生活の匿名性」論議を人質にして「表現の匿名性」を求める市民運動は「市民のため」か?

匿名性の二つの種類と、段階について。
「匿名性の段階」の方ですが、リンク先のテーマに直接関係はしませんが、「あなたは誰?」という議論を思い出しました。

匿名性を確保するための手段のレベル。
ある人がそれを匿名だと判断するレベル。

これらもそれぞれ別個にありますねぇ。

団塊の世代、団塊Jr.、団塊三世といった用語を用いて論じることの根拠のなさが嫌いです。

真性団塊Jr.の仕事観 カルチャースタディーズ主宰三浦展氏 リクルートワークス研究所

これなんかを読むと、傾向や可能性としてありえるなぁと思う以上に、結果に因果を後付けしているという感想の方が強くなります。
たまごっちやコギャルなど、同時期に高校生世代で流行が作られたのはその親が団塊世代だからだ、と言われても、それで?としか思えません。親の片方が団塊世代ならその子は団塊Jr.だそうで、だからそうなったんだって…?へぇ~、と。

もちろん、コンサマトリー/インスツルメンタルという価値観の違いはあるでしょうし、似た生活環境にいた集団が同じ傾向に偏ることはよくあると思っています。でも、その原因が「親の片方が団塊世代だから」とかでは、せっかくの研究が安っぽく見えてしまう。

主従というか、主と副といった関係が私たちに比べもっと弱いのでしょう。全部等価で、価値相対主義。例えば関川夏央さんが朝日新聞に書かれていましたが、東京大学の大学院生が「ドストエフスキーって誰ですか」といったそうです。大学院生ともあろう者がドストエフスキーを知らないことは恥ずかしい、という価値観がそこにはない。


彼らにとっては『少年ジャンプ』の漫画家の名前を知らないのも、ドストエフスキーを知らないのも同じこと、恥ずかしくないわけです。そういう相対化された価値観を持っている。だとすると、やるべきことと、したいことの区別もあまりないのではないかと考えられます。すべては「したいこと」といいますか。「ドストエフスキーを知っている」ということは、今の若者にとっては趣味になってしまって、それは「あ、ドストエフスキーが好きなんだ」ということにしかならない。

こういった部分に、あぁそうだなぁ、と思うわけですが^^;。

こちらあたりを代表として世代論に関する批判が話題になったりもしたわけですが、その件での発端らしい梅田さんの主張は「敢えて」「確信犯」だそうで、ま、「世代」をキーワードに含めておくととにかく食い付きがよいってことですね。こちらの場合は「ネット世代」だそうですから、ラベルの示す範囲としてはさして違和感はないですけど。

まじめな話、うんたら世代という言い回しは、単にある趣向や傾向に対して名前を付けた以上の意味はない、そういう使い方しかされていないと思うし、そう割り切って読めば読む価値があるわけですが、中には本気で「その世代だからだ」と言っている人もいるようで萎えたりもします。因果が逆です。「この世代だからこれこれ」ではなく「これこれの傾向に当てはまる人を何世代と呼んでみている」。環境によって考え方にある傾向が見られるという研究は興味深いんですけどね…。

そんな感じで、人の主張は疑うべき、と言っておきます。もちろん反論を推奨するんじゃなくて、妄信するなってことですね。誤りやずれの可能性をずっと念頭に置きつつ、なるほどそういう考え方もあるのね、と吸収するのです。

これは人を信頼しないことではありません。人を信頼しましょう。よりありきたりにいうと、人を尊重しましょう。

主張は疑惑の目で見るべし、人は信頼の目で見るべし

最初にこのキーワードだけ思いついて、本論は連想に基づく付け足しだったり^^;。

RandomNoteより。

自分がバカにされないことに意識を集中する。これが劣等意識がもたらす「引き下げの心理」なのです。部下の行動、妻の言動、何かのコラムに批評することで「自分の方が偉いんだ!凄いんだ!」と自分で確認しなければ、気がおさまらない。だから、良いところより、批判することにのみ、すぐに意識が向く。

記事全文(のみならず連載全体)を読む価値おおいにありと思いました。

私は、「何か新しいっぽい意見が無い時は語らない症候群」かもしれません^^;。それって結果的に「俺の方がすごいんだ症候群」と同じな訳ですが、相手にとって新しい何かを書かないと(自分が)価値を感じれないという心理が強かったです。で、それのまずさを自覚したからこそここの所は比較的あたり前っぽい意見でも書くようにしてたりするんですが。
blogger にはそういう人(あたらしいっぽい意見、の方ね)が多そうだよ。だれだ?Only one がいいとか言ったのは:p。うなずき系を批判する人も同じかもね~:p。
ちなみに、おいらクリップはうなずき系を目指してます。この記事もあっちに書こうと思ったけど、うなずき系を越えて意見を書いたのでこっちに書くことにしました。

上記コラム本論は「完全主義」について書かれてるんですが、タイトルである「何もしない人ほど批評家になる」は、前にこんな感じで触れまくっていたのでそこに反応というか、共感。

さて、批評家度テストをしてみますか。高得点が予想されますが^^;;。

1、 上のコラムを見て、すでに何かを言いたくてムズムズしている。
>上記のような感想をいいたくなりました。当初より付け足しが多くなったので、○、かな?

2、 誰かが誰かを誉めていると、問題点を指摘したくなる。
>「誉めているから」という理由で問題点を指摘したりはしないので、×

3、 誰かに素晴らしい講演会ですと誘われると、ついついあら捜しをして勝ちたくなる。
>勝ちたくはなるなぁ^^;。でもここで言ってることとニュアンスは違うと思う。×、んーここは微妙かも…

4、 教育は誉めるより、矯正して正しさを教えるべきだ。
>×

5、 自分の理論は正しい、間違ってはいないと思う。
>×

6、 人の話題は、いつも自分の話題に切り替わる。
>これは…自分では判断し辛い…言葉を遮っちゃったり、ある気がする…△

7、 本や映画などは矛盾点を指摘したくなる。
>○

8、 あまのじゃくと言われたことがある。
>人から言われた記憶は無いが、ばりばりに自称してます。○

9、 部下から飲み会にはあまり誘われない。
>「部下」はいないんですが…^^; 正直に○にしとこう^^;

10、 子供の雑談に割って入って、「うるさいなぁ」と煙たがられることが良くある。
>経験は無いんですが、すごくありそうな気がするので、○

11、 部下や目下を誉めることは、人より少ないと思う。
>過去はそうだったと思う…今はその辺では素直さが出てきたと期待込みの、×

12、 自分は劣等感が強い方だと思う。
>×

5.5 あるいは、6 という所ですか。傾向あり、ですね^^;。

(追記)
ARTIFACT ―人工事実― | レッツビギンや! ポジティブシンキングやで!
にて、上記記事への反応について触れられていました。

「批評」「批判」と「否定」「非難」は異なり、全てを引っくるめて「批評」とみなす人や、「批評」と言われると「非難」と同義と思ってしまう人が多いのは事実です。批判と中傷の区別が付かない人と比べれば問題は軽微ですが^^;。

ただ、それは、見た側というより、自称「批評家」「評論家」の方が「批評」と「非難」の区別が付いていないことが多いと思います。私はそれを似非評論家と呼んでいますが(誤解受けそうなのでこっちにリンクしたほうがいいかな…)。元文書はそういう人を指していると読むのが自然と思うわけですが、やっぱり「批評」というキーワードに反応される方が多いようです。

「批評」は「分析」+「幾許かの主観に基づく感想」なのだと思います。後者の比率ができるだけ少ないほうが良い「批評」なのだろうと思いますが、主観0だとそれは単なる分析であって批評ではなくなってしまう、のかな?^^;で、主観の比率が上がっても、それに正当な根拠が伴っていればやはり、良い批評であると思います。

鍵となるのは、「評論対象への敬意」と「公平性」であって、それらが欠けている批評は一般に「ミスリード」と呼ばれるものではないでしょうか。

では、冒頭の記事はミスリーディングか?というと「批評」というキーワードの示すものの曖昧さを明らかにしていない所はミスリーディングかもしれません。でも、誰に向けて書かれた文書かということを無視して、文書の存在意義を批判したりするのはどっちもどっちな話かな、とも。

あと、自分が「批評」の正当性をいくら説いた所で、最後の「批評家度テスト」に書かれているような一般からの評価は十分にあり得ると思います。

すでにくだらないと「点」すらカウントしなかった人が、キング オブ 批評家かな。

該当文書を批判しつつそういう行動を取るなら、まさしくそうだと思う:p。似非評論家(批判家と言ったほうがいいのかも)は必ず開き直る。自分のやっていることの正しさの証明に必死になる完全主義者だから。まっとうな評論家であっても、既に自覚しているからそう言われるのも仕方がない、と考えるのかな。私は自覚もしていたが自戒にも役立つな、と思ったんですけど。

あ、設問の仕方の問題で回答に微妙な影響があるのでは?という指摘は同意です。

圏外からのひとこと(2004-06-21)さんより。

さまざまな調査から,選択肢の爆発的な増加が幸福感を低下させる重要な要因になっていることがわかってきた。
 豊かになり,やりたいことができるようになるにつれ,幸福感が薄れていくらしい。個人の自主性,選択,決定権が尊重される時代だというのに,なぜ不幸の度合いが増えてしまうのだろう?


こちらで示されているとおり、幸福は感情が満たされるか否かなわけで、選択肢が多くなれば何をすればいいのか?という混乱がストレスになりうるし、やりたいことができてしまった結果としての「次の欲望」の増大を満たすことが結局できないということもありえますねぇ。
選択肢は手段の選択肢でもあるし目的の選択肢でもあります。

目的の選択肢が少ないことは、当人がやりたいことがあらかじめ絞られていた、ということですかね。そして、手段の選択肢が少ないことは、それぞれの手段を十分に吟味する余力があった、と。他の魅力的な目的に目移りすることなく、一生その趣味に打ち込むこともできた、というところでしょうか?

現在は目的の選択肢が多くて、目移りします。ある目的を達成した後どうするか?という段階でもやはり目移りします。で、特定の目的に絞った後は、どれを選んでいても今度は手段の選択肢に悩まされる。

惑わされなければ、幸福をつかみやすいのは確かなわけですが…。

すみません。たぶん 2ch のコピペなんですが、ずいぶん前に自分メモに切り取っておいたやつを発見したので、こちらに残しておきたいと思い、貼り付け。
(追記)こちらを見つけました。原点は結局知らない(調べてない)けど。

ある船に火災が発生した。船長は乗客に海に逃げるよう指示した。


イギリス人には「紳士はこういうときに飛び込むものです」
ドイツ人には「規則では海に飛び込むことになっています」
イタリア人には「さっき美女が飛び込みました」
アメリカ人には「海に飛び込んだらヒーローになれますよ」
フランス人には「海に飛び込まないで下さい」
ロシア人には「最後のウオッカのビンが流されてしまいました今追えば間に合います」
日本人には「みんなもう飛び込みましたよ」

深いですね^^;。
これはジョークとはいえ、人にある行動を促したい場合にどのような作戦があるか?とか、どう使い分けると効果的か?といったことを考えさせられます。

紹介させてください、と宣言してはや3ヶ月^^;;。
躁うつ病者かく語りき(主に躁時): 復職交渉中、休職とは?

での虎馬さんによるコメント中の一文。素晴らしいです。
manic-depressive さんのこの記事自体も、虎馬さんのコメントも、blog ならでは、とまで言わなくても blog ブームのおかげでこういった貴重なご意見/やりとりを見る機会が増えたんだなぁと強く思います。もちろん 2ch などでもこういったなかなか見れない意見を見れたわけですが、「人」というコンテキストを維持している所が違いますね。その言葉を発した人とコンタクトが可能という。

manic-depressive さんの記事は本当に素直な気持ちであると思います。「愚痴ばかり」とおっしゃってますが、それでも前向きに捉えようという努力を読み取ることができました。このサイトで「人」に関することや自省を促すようなことを書いたことで分かってきたのですが、躁鬱に類する病を一度でも経験した方は、総じて自分を見つめる機会が多いんですね。アクティビティ抜群な方にはこのサイトは(比較としてですが)興味を持ってもらいにくいんだろうなぁ、と。

人の心のウチを読んだところで何の利益もありませんし、建前とホンネがどう、といって詰め寄ってみても不利になるばかりです。あんまり深く考えず、専守防衛に徹するのが「吉」かと。

自分を見つめた結果としての、重要な言葉と思います。このサイトの色はこんなんですが、こんなこと考えてばかりいてもだめなわけです^^;。まぁ、幸せはそれで自分が満たされるかであることを考えると、それを考えること自体が幸せ、でももちろんいいですけどねん。

完結させたよ。ぃや、完結したわけじゃないけど、解放だ!!
これから、やりたかったことバリバリいかんとな。

まずはやりたかったこと、一杯あるからどれをやるか決めないと^^;。
まずは山に行こう…季節は夏だな…いつの間にか。

「話を聞いてくれる人に相談を持ちかけたい」という保健室があれば…

おおっ、そうだったのかっ!! わたしゃ保健室の利用経験がほとんどないですが、二昔ほど前のドラマとかでは保健室のシーンはよくあった気がします。 で、上記記事ではネット上に(おそらく匿名の駆け込み相談も許容する)いわば井戸端会議所を作るといった話題なのですが、なるほどそれって保健室の主要な役割だったのかぁ、みたいな^^;。

この場合の保健室って、たぶん先生一人だけではなくて、先生と、そこに集まる数人程度のゆるい繋がりの常連と、駆け込む人、みたいな関係が構築されることになるんですかね。常連の繋がりやそこへの思いいれが強すぎると単なる蛸壺だし、先生がワンマンだったり主義主張が強いとそれは保健室ではないし、といった微妙なラインがあるような気がします。先生は権力ではなく人望であることも、か。

保健室ってくらいだから、やっぱりメンタルヘルス系を想像しちゃいますかね^^;。それ系以外で保健室モデルになっているところってありますかねぇ?木村剛さんのところなんかはどうなんでしょう?と言ってみるテスト

ここまであれこれ考えてみて、そういえば「共感」という言葉があることに気が付きました。ふだん何気なく使っている言葉ですが、「小さいのに大きく見える」という具体的で適切な用途を見つけたような気がしました。これこそが共感という言葉の使い道のような気がしたのです。共感という言葉を使えば、「自分でもこれと同じことができるんじゃないだろうか」などというおこがましい気持ちも晴れやかに洗い流されるのかなと思います。

共感は感動の中でも自分にもできるかもしれない、或いは過去にしてきたと感じさせること、ですかね。

この記事の中では、「小さいのに大きく見える」という点に着目されています。これって、印象評価以上だった、ということと思いますが、そういう意味で他人の共感を呼び起こすためには、見た目などの印象がよくないのは有利ってことですか^^;;。電車男もそういうことですか^^;。

ま、そんなわけで、コンプレックスをポジティブに捉えるために良い考え方ではないかと思ったりしますー。:)

ところで、上記記事の文脈において「体が小さい」ってハンデなんでしょうか…?^^; それもまた思い込みは利用してやれくらいに思っておけばいいかなっと。

また、インターネットの中に現実社会、特に国家の法や政令、が関わりを持つようになってきたことで、それに対する反応などは、コミュニティを二分する可能性があります。 そのような大規模な対立が生じた場合の解決策が確立されてません。この手法が確立された時に、ネットは第三世代に入るのではないでしょうか? 現在は、そのような争いが生じつつあるが解決手法が存在しない。そういう点で2.5世代ではないだろうか?そのように思えます。

いつも興味深い文章を提供されている Unforgettable Days さんです。

(人をグループ化する意味の)世代論にはあまり興味が無いのですが、ここで述べられているのはインターネット社会自体の成長段階についてですので興味あり、です^^;。

大規模な対立構造になると、どうしても味方が敵状態になってどうにも収まらなくなるので、現状の誰もが意見を言いあえる環境ではそれこそ内紛の嵐になりそうな予感はします。というか、なってますけど^^;。

解決方法…結局、物事を決める場面においては誰もが意見をできる状態ではだめなのだろうと思いますね。だから blog は議論に向かないわけで。

きっと、ネット国会/ネット議員制度が出てくるかな^^;;。

そういえば、セキュリティ関係のコミュニティがオープンであると、不審者の排除が出来ない=ホワイトを保てないというテーマが話題になってますね。Winny の件も問題の質は違えど、メタレベルでは関連するかも。そろそろオープン/フリーの限界が垣間見える段階でしょうか…。

圏外からのひとこと(2004-06-14):コミュニケーション能力 ― 付言より。

そう、感情は人生上がるか下がるかのカナメでございます。
頭が良かろうが出世しようが金持っていようが、感情のおさまりが悪ければすべておじゃん。感情がうまく行ってなければどんなにいい要素があってもその人は不幸。
感情さえうまく作動していればどんなにひどい境遇にあろうがその人は幸福たりうる。

幸せとはなにか?を考えようかと思ったりしてましたが、あっさりと答えが書かれています^^;。

当たり前のことのようですが、要点は自分の置かれた立場/環境は幸福とは無関係、というところですね。すっきりしました。

ところで、上記 essa さんのところから辿れるこちら。

「自分のコミュニケーション能力には何か問題がある」なんて内省は、そりゃ立派なんだけど、それにこだわる余りに機会、場数を逸するのは本末転倒だと。

全くもってそのとおり、と思います。思いますが、私はそれをせずにはいられない人^^;。重要な機会をたくさん逃すタイプと思いますが、機会にぶつかっていく人の人間性が高いとも思っていない。

機会にぶつかっていく人は、その成功/失敗に関らずその点を尊敬しますが、自省を忘れていたとしたら、その点を軽蔑する。たとえその当人は世の中をうまく渡っていたとしても。

内/外のバランスの話ですねぇ。以前、

知的好奇心って内側への力かなぁ?それを外に出すのとのバランスをどれくらいにするのがいいものか…^^;。

こんなこと書きましたが、これも同じことで。
じゃぁ、今度はこの、内と外(或いは input/output)のバランスの置き方を考えるかな^^;;。

このサイト自体の掲示板です。各記事とは無関係な話や私信に近いもの、雑談など~。
娘の4歳の誕生日より始動。以前のはこちらです。

ココログから自分のドメインに移動してきました。

記事も全部移動しているのですが、この記事より古い記事内で、自分の記事へリンクしている箇所は、ほとんどがココログの URL を指したままになっています_o_。いつの間にやらココログの旧サイトへ飛ぶということが起こってしまう(そのままトラックバック/コメントしてしまうとココログの方になってしまう)ので、できれば修正していきたいのですが、PermaLink の法則がごっそり変わっているので、自動的に修正するのがかなり難しいです。
アクセス頻度などに応じて直せる所は直そうかと思っています。import する前に修正すれば被害は少なかったんですが、それでも大変な手間なので…-_-。

やっぱりせめてココログ側のコメント/トラックバックを閉じたほうがいいか…。

あと、リンク元/アクセス数の多いページをリセットしました。
これでまた古い記事で反響のあったやつとかは見てもらいにくくなるわけですが^^;、まぁアクセスランキングはあまり意味がないとも思うので、次の策の導入を考えています。

これまでサブカル的に扱われがちだったネットの世界とリアルの社会との垣根を低くできる。そうなれば、ネットの世界とリアルの社会の間でポジティブな相乗効果を期待できるんじゃないかと夢想しているのです。

木村さんならきっと一定以上の動きをもたらすことができると思います。

これまでインターネットでは技術系の知識人が目立っていたと勝手に感じています。
実際には他分野の知識人も情報発信はしていましたが、私のような技術オタにはなかなかその情報に触れる機会が無かったのです。私がまさか木村剛さんという人について興味を持つとはって感じです^^;。

これは blog ならではだったと言えるかもしれません。blog ではカテゴリごちゃまぜの新着リストがあったり、分野を問わずに話題が伝搬していく性質があり、興味の中心に無い話題が目に入る機会が個人的には過去より増大している気がしています。技術に疎い他分野の知識人も情報発信がしやすくなったということももちろんあると思います。

この段階でネット界隈では動きが既に出てきているわけですが、まだリアルワールドに働きかけるには到っていないのが現状。そこを変えようというのが木村さんの野望です。この変化には仮想世界での有名人の力だけではどうにもならない壁があります。また、リアルワールドの有名人が働きかけたとしても、一時的なニュースで終りがちです。
これが実現されるためのキーワードは「継続」、そしてそれが当たり前と世の中に認識させることなのだと思います。

そんなことができる人間はそうそういません。木村さんといえどもとんでもなく難しいことと思います。
しかし、今の木村さんのモチベーションを見ていると、期待させられますよね。万が一尻すぼみになったとしても、大いなる挑戦であったとして将来の糧になります。「無駄なことを」とか「もっと他にできることがあるだろう」みたいな政治批判みたいな批判も出るかもしれませんが、今木村さんがやりたいと思っていることを邪魔することに意義がない、と私は思います。

やりたいと思っていることをやる時が一番効率良く成果が出せるものです。邪魔が入らず、気持ちよく続いていくことを願います。

ところで、木村さんの blog にかけているコストは相当なものと思います。「投げ銭」くらいは導入してもバチは当たらないのではないか?と思ったりしますです。木村さんの所なら相当フィードバックがありそう^^;。
もしそれがまた成果が出るようなら、今度は blog ビジネルモデルの一つの好例として語り継がれるだろうな、なんてことも。


あと、関連して思っているのはテレビの CM は話題になるのに Web 上の CM が話題になることは極めて少ないこと。
テレビの CM はスイッチを入れさえすれば強制的に見せられることに視聴者の方が慣れているが、Web の広告は能動的に見ようとしないと見れない。そして、テレビの CM のように広告費を投入していないからでしょうけれど、CM そのものが話題になるようなインパクトのあるものが作られない、作っても関心を持った人にしか見てもらえない。
興味の無いことでも目に入っているうちに興味が出てくるというのがプロモーションの鍵でしょうけれど、Web 広告はまだそのあたりを解決できていないと思うわけです。

目ざわりでない程度に関心事と無関係な情報が流れ、それを読み流しているうちに、ふと興味を持つ、という流れが blog に期待できるかもしれないな、と思ったりします。

誰かを責めたいというよりは自分が反省しなければいけないという意味で、この「弱者の権力の濫用」というキーワードが私にとってとても大事。
たとえば私が「貧乏だから」と言うとき。 たとえば私が「女だから」と言うとき。 たとえば私が「若いから」と言うとき。 たとえば私が「就活うまくいかないんだよね」と言うとき。
私はこの狡い卑屈さで相手を攻撃している。相手がそれに対して絶対反撃できないとわかって。だってこれに対して相手がどんなに正論で返したとしても、こちらが弱さを武器にしてひがみ倒せば相手はもうそれ以上なにも言えなくなる。相手にはどうしようもないことだから。

よく噛み締めておきたいですね。

如何様にも:みっともない

あなたはセルフハンディキャッパーでしょうか?
自分はセルフハンディキャッパーだろうか?

ただ、もちろんセルフハンディキャッピングはすべての人間が無意識に使ってしまうものでもあります。問題は「だから、何?」という部分でどう考えているかではないかと思ったりしました。「~であることに免じて大目に見てよ」というのはありだろうと思います。問題は自分の責任が無いかの如く振る舞うこと(責任転嫁)でしょうね。

ところで、前者のコメント中の poff0516 さんによるコメント。

唯一できる反撃がありました。


「わたしもだけど」です。

あはは。ハンディは帳消しですな。
みんな、それなりに大変なわけですよねぇ。

前にこんなことも書いたなぁと、ふと思い出しつつ。

(追記)
ring さん(リンク先)がいなくなっちゃったT_T。
こちらにセルフハンディキャッピングの分かりやすい例が載っています。

propaganda:大衆の扇動を目的とした情報操作

情報の出所の明確さに応じてホワイト/グレー/ブラックのように分類されたりする。要するに黒いほどどこからともなく噂になっていくってこと。

権威のお墨付きに見せかけた言説とか、言説は明確(ホワイト)で、それはよく考えたら誤りだろうというものであったとしても、一見正論に見えて信用してしまいそうな声明など。
真実や根拠はよくわからないが噂になるように仕向ける。

レッテルと連動。プロパガンダは大衆にレッテルを誘発させるのが目的である場合が多い。世論誘導。

疑念や懲悪感情などを煽って噂として広めるためのテクニックとして使われる。要するに卑怯ってこと。

特定人物を「煽り」によって激昂させ、世間からみれば滑稽に映らせるというのもプロパガンダの一種かもしれない。

こう考えるとプロパガンダが作戦として成立してしまうってのがなんだかなぁ、ですねぇ。

ところで、まったくの正論であっても、異なる側面を述べないことでプロパガンダとなることもあります。

疑念ばかりがよいわけではないが、妄信はもっとよくない。

参考:
zyouhouka

陰謀論に続く…。

(追記)
アジテーション(agitation =扇動)もほとんど同じ文脈で用いられます。

えーっと既に議論がなされて収束気味っぽいらしいのですが、その前に書きかけていた記事です。議論自体は追い切れていません_o_。

圏外からのひとこと(2004-05-17):みんなってあんたと誰?
より。

「お前にはみんな迷惑してんだよ!」って何回も言われたことあるんですけど、「みんなって、あんたと、あと誰?」って聞くと、たいていは答えがない。不思議ですね。

はてなダイアリー - ネ タ の タ ネ
への Bonvoyage さんによるコメントだそうです。

<私>の代弁をよそおったモラル支配、ヤになる程ありますですねぇ!とまれ、これも 20040424#p2 でカキコした「恣意的強弱二者関係への追込み」なんですよね~。これは裏返せば、自己モラルに背く者への反感(不安)感情をモラル化して自分ダケぢゃないと責任解除し、同時に自己モラル強化=正統化することによる、自己安定化行動だったりするのでしょうねぇ。

と、hizzz さんがコメントされています。

この問題、確かに重要と思うわけですが、一方で私は以下のような思想も持っています。

感情に基づく「不満」といえどもそれを当人に伝えるのは良いことと思います。その時、感情をぶつけるのではなく「~ような主張/物言いでは~のような気分になる人も多いのではないですか?」とか少し客観的になって当人に理解してもらおうという態度で挑むことができればよいんだろうなぁ、と。
私は何かを述べる時に別に対象に向かって話しかけなければならないということはないと思っています。自分のことを話している人が自分に対して話しかけていなければならないというのは窮屈だなぁ、と。陰口に関する話題でも書きましたが、自分なりの根拠が述べられている、或いは根拠の説明の意思がある評論については、行動様式/人格は度外視して拝聴します。

元の問題を鑑みると前者引用は以下のように書くべきだったなと思いました。

その時、感情をぶつけるのではなく「~ような主張/物言いでは~のような気分になる人も多いのではないですか?少なくとも私だったらそう思います。」とか少し客観的になって当人に理解してもらおうという態度で挑むことができればよいんだろうなぁ、と。

書いた当時だって気分としては修正後と同じだったはず。
後者引用先で述べているように、

そのような行為に反射的に拒否的な言動をとってしまうということは、きっと多くあるのだと思います。私はそういうのはレッテルであると考えていますが、実際にピントはずれな分析が多いことも確かですので、気持ちは分かるわけです。

こういう現象もあることは理解しています。

これらの境界線は何だろうと思ったわけですが、言わんとする側の気分と聞いた側の気分に多分な相違があるんですね。
聞いた側の気分は「みんなってあんたと誰?」で象徴される感覚ですね。では「みんな」とまでは言わずとも、自分以外の他者もそう思ってるはず、という言い回しをすることによって、話者はどんな効果を狙っているのでしょう?

当然のごとく、「無視されざる意見であることの強調」なわけです。「俺はこう思う」だけではそれが正当な意見であっても「へぇ~、そう」で捨てられる可能性が高いことも事実です。我が侭を押しつけようとしているだけ、と見られるわけです。だからといって、存在するか解らない他者を引き合いに出した場合は、「モラル支配」に見えるわけですか。

結局、またしても「正当と不当」が鍵になるわけですが、「みんな」を引き合いに出すのが正当であるか不当であるかも結局主張が正当か不当かによって異なるわけです。というより、「みんな」と言ったかどうかは意見の正当性とは全く無関係ですから、実際のところはそこに反応すること自体が無意味なんですけどね^^;。もちろん不当な意見を「みんなこう思ってるんだよ」なんて言う人が「不快」であることは全く同意しますです。

で、私としては、(それが正当な意見であろうとも)自分への反論を聞く耳を持てない人が少しでも耳を傾けてくれるようにするために、実際にその意見が多数であるというある程度の確信があるなら「そう思う人が多いと思いますよ」と言うことはあると思います。

この話題の関連議論ですが、詳しくは見れていないのですが、どうも多数のコンテキストが存在し、それぞれのコンテキストにおける正論が述べられている印象を持っています。当然この記事で言っていることも完全に一般化はできていないと思います。そもそも「みんなってあんたと誰?」はすごくキャッチーな言葉ですが、この言葉だけではコンテキストが全く限定されていないので、いくらでも反論が出てきますもんね。

そうすると、いろいろなコンテキストをぶつかり合わせる形で議論するのではなく、それぞれのコンテキストにおける解釈を見て、自分の今後の行動の参考にするのが良さそうですね。

この議論は、こちらで言及記事をリストアップしてくださっています。
はてなダイアリー - Bon voyage! ~日常へのシステム・アプローチ

如何様にも

過去に何度か引用などしていた ring-ok07 さんのサイトです。
ご紹介が遅くなってすみません_o_(私信)

テーマは主に日常で、いわゆる日記といった雰囲気なのですが、文章のセンスと発想が(私的には)普通の日記と違います。ご自分をものすごく見つめていらっしゃる上、観察眼もするどい。それでいていかにも日常を感じさせる微笑ましさが好きです。
2月頃と現在では作風(?^^;)が変わっていらっしゃるようで、その頃の記事もご覧になると、きっと二度、楽しめます^^;。

日記でありながら、何に対して反省し、何に対してポジティブに行動すべきかを示唆してくれているかのようです。

批判への対応関連その3。>その1その2

インターネット上での有用な情報発信を続けていくと、その「人」がネット上の狭い範囲でとはいえある程度有名になったりします。少なくともそれを始める前と比べて、あなたのことを「知っている」という人は数百/数千人単位で増えることはざらです。でも、自分もそうですが、上には上がいることをみんなよく知っているので、やっぱり謙遜して「うちのサイトなんてたいしたことないしぃ」と言ってしまいがちと思います。

「うちは有名サイトなんだよ」と言っちゃう人はそれはそれですごいわけですが

でも、そのことを自分がどんなことを書いてもいいんだという免罪符として使う人がいます。どんなことを書いてもいいわけではないのに。

と、上記文章だけだと違和感を持つ方も多いでしょうけれど、当然のごとく、ここで言っているのは、そこにそれを書いたことで大きな波紋が広がり、様々な害悪が発生することもあるんだよ、というのが言いたいわけです。

でもまぁ、本人の気持ちからすれば、「今までと同じようにやってきただけなのに」と思うのが当たり前で、開き直りたい気持ちも当然ですし、私なんかも責めるようなことはしたくもありません。
ただ、もし「影響力を考えてよ」といった指摘がなされた時に「うちは個人サイトだから」というのは反論にはなっていないなぁ、とは思うわけです。その「影響」が具体的に何であるかによって大きく変わるでしょうけれど。結局問題は発言の正当性(と倫理)だから、発言者の立場は関係ないってことですね。ただ影響力が大きいと発言の正当性に言及される確率が高くなるってだけで。


参考:
不満を人に伝えるのはよいこと、不満を人にぶつけるのはみっともないこと ここで予告していたネタだったことを思い出し
ARTIFACT ―人工事実― | 個人が好意でやっているものに対する受け手の態度
こちらは、影響力に対する批判の話ではなく「客」として注文を出してプレッシャーをかけるような行為についてですので、ここに出した話題とは違いますが、コメントが関連してます。あくまで参考として。

私はこの記事における加野瀬さんの「読者の判断に任せる」というポリシーに共感するのですが、「読者の判断に任せる」の意味を履き違えて理解している人がいることは危惧します(*)。また、先にも書いたとおり、「個人サイトだから」というのは言い訳にならないと思います。個人サイトであろうと影響力に応じた慎重さは必要だと。影響力を持ってしまった個人が慎重にしたくない場合は別のサイトを立ち上げればよいわけで。アイデンティティというレッテルから抜け出すことにこそ「匿名」が適しているわけですし。
注意:「影響力」は「単に有名であること」とは違います。

*:読者の反感を浴びることで責任を取るケースがほとんどですが、情報発信にはいくら言論が自由と言えども反感/糾弾じゃ済まないような被害もあり得るわけで。

なんとなくうれしいので別記事にて。

これくらいの差があると、Yahoo の方をメインのサーチエンジンにして google をサブにしようかな、とか思った。
でも Yahoo はトップページになんか ActiveX が乗ってるみたいで警告が出てうざい+検索窓にフォーカスが行くようになってないのでうざいです。この辺はもうちょっと考えてほしいなぁ。

これに加えて、トップページは余計なものが多すぎ、というのがあったんですが、これを書いた直後ですが、以下の URL を bookmark することにしました。

Yahoo! JAPAN Search Results

こりゃすっきりしてていいや^^;。
www.yahoo.co.jp を信頼済みサイトに入れるのに抵抗があったんですが、このページを bookmark して search.yahoo.co.jp を信頼済みサイトにしました。これで警告も出なくなります。
フォーカスが検索窓にいかない問題までは対処しませんが、これで Yahoo を使うモチベーションが上がったかも^^;。

最近 google ばっかり使ってましたが、ぴっくあっぷ。さん経由で落ちこぼれアフィリエイト: Yahooからのアクセス無くなる を見て、そういえば今日はアクセスが少ないかも、と思い Yahoo でここ最近のこのサイトのリンク元上位キーワードを入力してみました。

(感想は執筆日現在のものです)
Yahoo!検索 - ヒロシです Google 検索: ヒロシです
…トップじゃん…-_-

Yahoo!検索 - 絶対音感 Google 検索: 絶対音感
んー(自分のページの出てくる位置的には)あんまり違いは無いかな…?

Yahoo!検索 - web拍手 Google 検索: web拍手
Yahoo!検索 - おれおれ詐欺 Google 検索: おれおれ詐欺
おぉ、公式関係サイトがたくさん。多分以前は一ページ目に出てたはず。ページをめくっていってもこのサイトはなかなか出てきません。philosophical と併記すればトップに出たので無くなったわけではないようです。

Yahoo!検索 - させていただく Google 検索: させていただく
お、重要そうなサイトが前半に来てます。

なんていうか、ここに挙げたような当サイトにたどりつく上位キーワードを見ても分かるとおり、今までただ紹介しただけのページがトップクラスに出てて紹介先のオリジナルページの方が順位が低いなんてことがあったりしてなんだかなぁと思っていましたが、Yahoo の検索結果がだいぶいい感じになったような気がします。
これくらいの差があると、Yahoo の方をメインのサーチエンジンにして google をサブにしようかな、とか思った。

でも Yahoo はトップページになんか ActiveX が乗ってるみたいで警告が出てうざい+検索窓にフォーカスが行くようになってないのでうざいです。この辺はもうちょっと考えてほしいなぁ。


ところで、落ちこぼれアフィリエイトさん。PermaLink 形式を月別にしていらっしゃるようですが、コメント/トラックバックが MovableType 標準テンプレートの別窓方式じゃないため、トラックバック画面にいけません。これだとコメント付かないんじゃ無いだろうか…。ping URL は AutoDiscovery 情報から取り出しましたけど^^;。これはココログのバグかな…?
(追記)記事ごとの PermaLink に変更されたそうです。リンク修正しました。

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