と、いうか、サーバごと止まってます-_-。
なので、リモートから復旧できません…。現在車もなく足もないので始発待ちでございますT_T。
2004年10月アーカイブ
Amazon.co.jp: 本: 電車男
うーむ。山の手線の釣り広告にでかでかと並んでるのを見てしまったしなぁ。宣伝やる気満々だったもんね~。
当然内容は面白いわけだけど(本は見てないけど)。
それはそうとして、ここまでマスの目に触れるようになると(きっともうすぐテレビでも紹介されるだろうし)、これは日本のネットの印象を変えるくらいのインパクトになるのかもしれないですねぇ。ネット住民の中では終わった話だったんだけど
ご本人たちのことは置いておいて、この内容が世間で受け入れられることで、ネットにはまる人たちを見る目が少々変わってくるかもしれません。それはもしかしたらすごい貢献かも。
(追記)
でもいろんな人が言ってますが、これ見て2ちゃんねるにいく人が増えたら困るのは確かだなぁ…。
ブログのなかでその筆者の心の傷ような記述にときたま出会う。ま、私自身とここもその例外ではないといえばそうでもある。 そうした時、とても不思議な気はする。 なぜそんなものを公開するのか?、と。そしてそれについての理屈は付くには付くのだろう。そして、「癒し」という言葉は嫌いだが、その公開とそれを読む人との間に、癒しに近いある心の運動は始まる。
人に見せることが目的であるケースは少ないのではないかと思っています。 励ましなどの他者からの反応は必要なくて、他者からも見える場所に書き記したという事実が、自分に対するセルフハンディキャッピング的に作用するんじゃないかなぁ、と。 「自分はこんな状況にある/あった」「でも生きている」という状況を自ら作るんです。自分が自分について書くとしたらそういう心境で書くかなと思っただけですけど。その意味で、この効果を狙う場合は他者から見えない場所に書いても弱い。自虐ネタとして他者からは嘲笑してもらえれば本望みたいな。 もっともっと重い場合はどうなんでしょうね…。わかんないですがやっぱりそれも明言したくない何かに対する予防線的にされるのではないだろうかと思う…。予防線をはれたことに癒される、とか?^^;
なお、元記事は「それを読む人」側への効果についてまで踏み込まれていて興味深いです。
後2週間ほどで納期の仕事をぇぇかげん真面目にやらないといけないので、トラブル対応以外での sidebar.jp のバージョンアップはそれ以降になります_o_。
今作っているものなどについてメモを。
以前「つまり/要するにをうまく使おう」といった記事も書いたことがありますが、世の中にはうまくない「要するに」が氾濫しているのが実情です。その辺に付いて私見を。
まぁ言うまでもないことかもしれませんが「要するに」という言い回しには表裏一体の意義があり、要するに:p「例外/詳細を吟味せずに断じる」面と、「大筋を解りやすく説明する」面がある、ということです。
他人の説明を聞いたときに当人に確認するために「要するにこういうことでしょうか?」と聞いたり、自分が説明する立場のときに「要するにこうこうということと言って差し支えないです」と述べるのは、重要で価値あることです。
他人の言葉に対して「要するにこいつはこう言っているんだよ」とか言っちゃう人が多いわけですね。他人の意見が他人にそう簡単に要約できるわけがないのに。まぁ私もあくまで私見を述べる場では「彼は要するにこういう思考で言ってるんだと思いますよ」といったことは言いますけど、(明言しているかにかかわらず)「思いますよ」というところに「私見」であるという明示があるわけです。
こうやって自己弁護するくらいだから、他の多くの方も「私見」のつもりでそのように言うことは多数あるのだと思っていますが、中にはやけに自信ありげに他人を断じる人がいます。そういうのが似非評論家です。
まぁ、都度都度「あくまで自分がそう思っているだけだ」と前置きするはずもないけれど、自分も似非評論家状態になっていることはあるよなぁ、と自戒も込めつつ。
似非評論家で別にいいやん、とも思うし、そういう視点に立つと一概に「悪い使い方」と言えるものでもないのですが、まぁ個人的にはかっこ悪いし好かれる態度ではないと思っているので、気持ちを新たにするためにも書き留めておこうかと。
と言うわけで、格言。
他人を要約できるはずがない
与太話からのネタ。
鹿児島の建設職人さんを呼んで施工してもらうという建築ビジネスは成り立つんじゃなかろうか。
「台風と火山灰対応で培われた堅牢性/機密性を提供いたします」
って。
そんだけ…。
Books by 麻弥~ News Collector ~Old 00000031~より。
不定期コラム Engineerを考える(8):文字コミュニケーションを円滑に~行間の鎮火術
正直、おいらはこれでは表面上の鎮火しか望めない、と思った。なんというか、自分の逃げ方を教えているだけで、相手のことを本当に思いやっているように見えないというか…。少なくとも自分はここに書かれているとおりの対応をされるとがっかりする。
とはいえ半分以上は当たってると思うけど。ただ、これをガイドラインみたいに思う人が増えると個人的には嫌だなぁ。
何が引っかかるかって、「引き際が大事」「引用は避ける」「顔文字は避ける」といったあたり。
あるケースでは当たっているけれど、全体に適用できる話では決してないと思う。「避けたほうがいいことも多い」程度なら解るけれど著者の論調はそうではないような気がするので。これは全体を見ての印象と合わせての感想。
特に引用は文字ベースで議論をする上では重要で、引用を避けたほうが良いケースの方が稀。書かれているとおり、「相手の感情を逆なでする(相手のミスを含めて)部分を繰り返し引用してしまう」ようなことは避けたほうがいいけれど、相手のどの主張について話しているかをきちんと引用しないと単なる印象操作になってしまうケースの方が多い。
人は、なんとなく思ったことを書いてしまう。この記事も印象が元であり、厳密にどこそこが変、と完全に明確にはしていないわけだけれど、そういうのがいいということだろうか。明確にするのはしんどいけど、明確にしないと迷走するのが文字ベースの議論というものだと思う。
まさしく暴風域。
いままでおいら、台風の来ないところでばかり生活してたんだなぁ、と思うほど。
九州では台風良く来てたけどなぁ、これが 45m強か…。
家のドアが開きません…。
17:42 通り過ぎた
週刊!木村剛: ネット有名人vsリアル有名人:テレビは見ないがネットは使うという表題を見て違和感を覚えました。何がおかしいと感じたのかな、と考えてみたら、リアル=テレビと読み取れる書き方だったということに気がつきました。
あぁ~なるほどー。 テレビは「リアル」ではないですね、確かに。自分も以前「リアルワールドの有名人」といった書き方をしたことがありますが、これ、間違いですね。
本当は、マス(の世界の有名人)でしかないと。
ネットがさらに普及し、マス化してテレビがたとえば現状のケーブルテレビ程度になると、まさしく影響力が逆転するわけで、ネットの有名人の力が相対的に上がるわけで。
今でもネットはかなりマス化していますが、テレビほどではない。それだけのことでしたね。
リアルと言って妥当なのは、対面コミュニケーションが可能な程度の範囲、ということですね。「リアルの有名人」という言い方は、「リアルな場で話題にしても皆に通じる」という意味で、現状はテレビに出ているような有名人であり将来はネットの有名人が該当するかもしれないという意味では間違ってないですけど^^;。
2ch のコテハンですら(たとえテレビに出なくても)「リアルの有名人」になり得るわけで。まぁそこまでいくと現状は妄想の域ですが。テレビ自体がネットから供給されるようにでもなったらテレビとネットなどという区別もなくなるわけですしねぇ。
「取り急ぎ公開」状態の sidebar.jp について開発者的いいわけなどをこちらにて^^;。
もう一つ muse-A-muse さんから。
「こうしたブロガーの発言は、確かにCBS Newsを悪者扱いしようとするものであり、彼らの多くがつかんでいる事実に基づいた情報からは大きくかけ離れているため、ある種のデマと化している」(Browkaw)
大体自分たちマスコミも同じように風評被害をより強大な影響力を以てばらまいているという点を一旦脇において:p。
いわゆるブロガーコミュニティはそろそろ一般社会の縮図になりつつある(*1)ので、このような状況になって行くのは必然かなと。
スケールフリー構造にがっちりバインドされていきます。
そうすると、ブロガーコミュニティはジャーナリズムだ(ジャーナリズムの定義もよく分からないでいますが^^;)、と言うよりは、総体で見るなら普通に「世論」でしかなくなっていくと思われます。公園談義が目に見えるようになっただけ。
ただ、公園談義と違って、ちょっとしたことで急速な広まりがあることが懸念されることで、マスコミを脅かす世論誘発装置というわけです。確かに集団成極化が発生した結果として上記引用のようなことになったとしたらよいことではないと思いますが、消費者の立場からすると、今まではマスコミがやっていたことなのでその点においては何も変わらない。マスコミにとってはアンコントローラブルは脅威ですが。そして利点は言わずもがなですが、必ず両側面の見方が提供されることで、マスコミはなかなかそういうことをしてくれません。こうなると普及に歯止めがかからないですよねぇ(*2)。
だからと言って世論だけではどうしようもないのでマスコミを含むジャーナリストは必要なわけですが。
(批判を受ける)マスコミは単に今まで強権で封殺してきた批判(*3)が表ざたになってきただけであって、大半は本来されるべき批判を受けていると捉えるべきものと思います。相手を攻撃したり今までのように世論構築に躍起になるのではなくて、自身の潔白さを誠実にアピールしてほしいなぁ、と思います。
木村剛さんのところでは最近よく「ブログ→ジャーナリズム」に関する話題がされています。私は今のところブロガーコミュニティは「世論そのもの」に落ちつくと考えていますが、ブロガーの中にはまさしく世論を率先するような人や「ジャーナリスト」も実際にいるし今後も増えるので、そういう人を見つけて集積していくことができれば、単なる世論とは一線を画したものになるのかもしれません。ただ、やっぱりスケールフリーということで人が集まると「一マスコミ」に成り下がりやすいので、そうならないようにするにはトップの精神力が問われそうです(頑張ってくださいー^^/)。
*1:もちろん黎明期はそうでもないわけです。
*2:今は簡単になったとはいえまだ面倒であるが故に、実際に書き続ける人の比率は低いですが、下手したら普段の独り言を何の意識もなく公開できるようになったりするかもしれないのですから。普通にしゃべるだけで世の中のどこかから返事が返ってくるような世の中もありえますね。見せたくないことは見せなくできるのは当然として。消費者の側が「世論」は見たくない、「ジャーナル(?)」を見たいんだ、ということになれば抑制がかかりそうです。実際そういう声はありますね。google にブログが引っかかってうざい、みたいな。さてどうなることやら。
*3:「公園」ではやっぱり批判されていたわけですが、それを世論と思わせないように振舞い続けてきた。
P.S.
ところで、2ch も同じように世論のようでいて世論誘発装置のようでもあるのですが、いずれの側面においても(当分は)ブログの方が高い効果を示すように思います。ブログは分散しているので 2ch という場所に行かなくても頻繁に目に付きますしね。
muse-A-muse より。
はてな 「社会のために」などと言いますが、人はなぜ他人の為に生きなければならないのでしょうか。一方、そのことに対して幸せを感じることもあります。その幸せの理由や「他人のために」の意義を教えて下さい。自分は哲学や心理学に対してズブの素人なので専門的な回答はツライつらいんですが、客観的な回答をお願いします。できれば秩序や経済的な合理性などではなく、「哲学っぽい」回答を期待しています。素人臭くてすみません・・・
客観的調査も勉強も0の思ったままなのでこっちに書いてみたり^^;。確かさはまったく検証していません。
「情」があるから。他者の喜びが自分の喜びになることは「共感」ですが、共感に基づく利他的行動は「自分のため」。「他人のため」の利他的行動は「情」ですね。
ということは、共感のほうは比較的説明しやすいわけですが、情(m_um_u さんの例だと猫を可愛がる感情とか)はやはり謎。謎の感情だけど人間に最初から組み込まれている。
ただ一つ思うのは、ボランティア(特に似非)などは対象への共感とは違う部分で行動しており、一見「情」で動いているように見えるけれど、明らかに利己的行動なんだよなぁ。(情でボランティアをされている方ももちろんいますが)
ボランティアをやった自分に酔うために(あるいはもっと打算的に)ボランティアをする、ということもかなり多いと思います。このあたりは本能とは違って社会的にそうすることが自分にとって益であると暗黙のうちに刷り込まれてそうなるのかな、と。「ボランティアでもしてみなさい」とか言われたこと、ありませんか?
まぁ、そうやってでもボランティアをさせることで、本来の「情」を呼び起こさせようというのが狙いなわけで、実際にボランティアをやって情が移るケースが多いのでそのこと自体はまったく構わないわけですが、たまにいつまでたっても情が表れない「自分に酔う/他者からの評価」だけ、という人もいますねー。
というわけで、まずは「情」とそれ以外を分離してみる。
「情」そのものについては分析不能な気もするけれどまたいつか思考実験してみよう^^;。
(追記)
ono さんから以前重要な指摘をいただいていたことを忘れていました_o_。
ちょっとうろ覚えで危ういのですが、囚人のジレンマ、ゲーム理論あのあたりはご存じですよね。
で長期にわたる競争の場合、利他行動がもっともメリットがあるという結論になるわけですが、あれもともとは生物学者の発見なんですよ。
で種の保存(仲間の保存)のために生き物は基本的に利他行動を取るわけなんですが、仲間殺しをするのは、利他行動を取らない連中(仲間)を排除する。
ゲーム理論そのまんま(爆)
非協力者には非協力でお返しする ってわけです。
よーでけたぁんなぁ。
「情」とは違う視点での利他行動の根拠です。
生物学的な利他行動は昆虫などを見れば明らかで、人間にも絶対に存在するものだろうと思います。それに加えて「情」が存在するなぁ、とも思います。
というわけで、sidebar.jp を公開しちゃいました。
ここ数週間これを作るという逃避生活してたのですが、ちょっと今週から数週間別の仕事が入っちゃって作りかけのやつを仕上げたり整備してから公開だと遅すぎだなぁ、と思い。
なにかというと、とりあえずはこのサイトにも置いていたようなリンク元ランキングなどが web サイトに 2行書き足すだけで使えるようになります。あと、そのアクセサリー上でらくがきして、それをブログに投稿できます。えぶろぐですな。「お絵かき」ではなく「らくがき」である所がポイント。絵日記を描いてくれる人、増えるといいなぁ。
といいつつ私は絵は得意ではないですが-_-。
正直まだばたばた状態での公開ですが、pre-alpha ということで、是非遊んでみてくださいませ_o_。サイト構成や CSS もここのやつをそのまま使っちゃってるし^^;;。
私、目に見える部分に凝るのはどうも苦手(自分にできる物がたいしたことないのに時間がすぐ過ぎちゃうので)。今回も裏で動いているライブラリはがしがし書いてますが表はこんなもんです^^;。
あと、テストも入念にはやっていないので、環境などによって通常動作も失敗してしまう可能性もあるかもしれません_o_。そんなときは遠慮なく言っていただけますと嬉しいです。Applet なんぞを使ってしまって、MacOSX の IE では起動しないらしいといった問題も確認しています_o_(Safari では動くことを確認しました)。
今後、150×150 にいろいろ詰め込む予定です。もちろんどれを使うかは選べるようにするつもり。メインに考えているのは…ちょっとまだ言うわけにはいかないか^^;。
あと、現状はやるべきことでやっていないことがいくつかあります。それに付いてはまた後ほど_o_。
あ、投稿可能なブログを増やすのはそれほど手間ではないので(ただし画像投稿ができるブログでないとだめ)言っていただければ早急に対応しますー。何しろコード書くのはすぐなのですがテストが手間なので、動作確認済みブログは現状限定していますです。
現状対応システム:MovableType/ココログ/livedoor blog/はてなダイアリー
多分 typepad/ブログ人あたりはうまく行くと思うけど未確認…_o_。
「人のよいところをどんどん見つけよう」キャンペーン
というページがあります。ポジティブで良いですねー(と、良いところをまずは見つけておく^^;)。
Other Voices(2004-01) -Poesia の 2004/01/07 から辿りました。
私、後者の加納さんのおっしゃることと同じようなわずかながらの違和感を感じた人です。
人格に対する「よいところ」というのは微妙な言葉で、もともと自分の考え方を見直すためのキャンペーンとはいえ、ちょっと離れて考えると、他人に対して「良い人レッテルを貼ろうとする運動」という見方もできてしまいます。
前者中で、「よかった探しリース」というものが参照されています。こちらは違和感なくよさげー、と感じたりするのです。私がひねくれ者なんですけど^^;。
事実の受け止め方を見直すことや見逃していた事実を見つけることは大変有意義と思います。ただ、他人の人格は想像によるところが大きく、「人のよい所を探す」というテーマに拘って、虚構を作り出すことのないように注意する必要があるかな、と思います。つまり、「良いところ」ではなく「良かったこと」と考える方が自分もすっきり納得できるのではないかと。「良いところ探し」というキャンペーン自体はすばらしいと思います。参加される方の意識が「どんな人でも良いところを見つけなければ」という強迫観念にさえならなければ、ということですね。
カテゴリに合わせて一応身勝手格言。
良い人であるかは想像するしかないが、事実が自分にとって良かったかははっきりと自覚できる
