2005年4月アーカイブ

この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。従ってここでも、あらゆる議論は最後には「空気」で決められる。(P16)

(若干元の文脈から離れた連想ですが)2ちゃんねるですらそうですからねぇ。
紹介されている本は面白そうです。
この文脈での「空気」は「作り出されたタブー」といったところでしょうか。

…ま、やっぱり日本特有でもないでしょうね。
正当な論理であっても、それ自体、あるいはその主張/こだわりの表現がその場の多数派or強権者の気分(利権もだけど)を害すものであると、結構な確率で跳ねられるんでしょう。
相手の気分を損ねず論理を伝え、場を納得させる技術の難しさを痛感します。

感情の人を論理で動かすのは不可能ですが、動かなくてもいい、言っていることを理解してさえくれれば、と思っていてもそれすら相当に難しい、と。

あとさらに関連して、やっぱりコミュニティには教祖が必要なのかも、と最近思いつつあります。リーダーではなく教祖、です。
自分は教祖にはなりたくないんですが、皆が対等の立場のコミュニティは意思決定力が極めて弱く、前に進みにくい、と。誰かによる「よしこれでいこう、いいよね」といった形で前に進むわけですが、それを言う人はなんだかんだリーダー的資質を持っており、そしてそれで皆が付いてこれるならば、教祖としての資質も持っていると言えます。

おそらく最も問題なのは、皆が互いの機嫌を伺っている状態ではないかなぁ、と。で、それって空気を優先させているが故だったりするんですけどね…。まぁ大抵の(伸びる)コミュニティではなんだかんだ引っ張っていく人が出来上がっていくものですが

なので、空気を壊してでも論理を述べる場面が必要になるんですが、論理を説得力を持って伝える能力(*)はもっともっと勉強していかないといけないなぁ、と思いました、まる

*:ただ単に正しいというだけのものではなく、感情の生物である人間の行動を変えるに値する説得力。これはつまり論理自体の正当性というより、教祖のやるような、心を動かす能力になってしまうわけ。当然そうやって導いた先が正当な論理に基づいていないと似非宗教になる。片手落ちが多いわけですが。


後半の文章は「空気」と「馴れ合い」が同義になってるな…。「空気」と「馴れ合い」の違いについても考えてみたいところ。

(追記)「空気」の研究の書評より。

有名な著作なので、これと両極端の著作をあげてみよう。
宮本常一「忘れられた日本人」。この本では、ある村の寄り合いで
いつまでも主題のまわりのまわりをぐるぐるまわりつづける話あいの
様子が描かれている。だれも致命的に痛手を負わないような機制が用意
されている事に、日本の古層を宮本は見ているのだ。


ここを読んで、上に書いた「…ま、やっぱり日本特有でもないでしょうね。」というのが誤解を招く気がしたので早めに弁明。私が日本特有でもないだろう、と思ったのは、当記事に書いたような部分(感情を説得する難しさ関連)であって、日本人が「空気」というか「場の流れ」とでもいうべきものを重視する傾向があるらしい、とは思っています。

(追記)
私、essa さんの文章を全て読む前に反応していたので、essa さんの文章と、「空気の研究」、および「忘れられた日本人」を全部読んでからもう一度感想を書こうと思います。結構後になるだろうけれど-_-。少しだけ部分に反応すると、私は「丸投げ」は責任を担保しているという意味で重要と思ってます。責任を取らない丸投げは当然批判されるでしょうけど。

実はみんなが知ってしまうと、自分が得できなくなる、というのが真理なのですが、みんなが知らないことは教えたくなったりもするものです。

Reflective Apes:ファミマカード錬金術:ゼロ資金から利回り5.9%
ある意味小さなことではありますが、ここでもいわれている通り、世の中大抵のものはこんなもんですね。
例えば年金なんかが申告しないと受け取れないとかになっているのも、一定数の「忘れる人」の存在を前提に予算が組まれていたりするからです。全員がきっちり仕組みを理解して行動してしまうと、胴元が立ち行かなくなるわけですね。
逆の意味で、(元来の意味での)シェアウェアなどの寄付によって運営するものについても同じ構造があったりしますね。こっちは言うなれば「一定以上の知っている人がいるから何とかやっていける」みたいなものですかね。

このような「何でもあり」の状況から脱出しないと、ブログは情報発信ツールではなく、単なる自己満足のツールで終結してしまい、いつになってもTVや新聞を凌駕する時代は到来しないのではと私は思います。もちろん、凌駕する必要性を感じない方には関係の無い話かもしれませんが、ブログが淘汰されることだけは避けたいとの思いは同感いただけると思います。

週刊!木村剛 powered by ココログ: [ゴーログ]果たしてブログは市民権を持ち得るのだろうか?より。 この部分だけに反応します。 ブログそのものが TV や新聞を凌駕することはないかもしれません。TV や新聞とブログの決定的な違いは、「誰でも参加できること」です。 これはすなわち、破壊的行動を行うものを排除する手段を(少なくとも現状は)持たないことを意味します。 テレビや新聞はそのメディア自体を崩壊させようともくろむ人間がいたとしても、テレビや新聞自身の上でこれらのメディアに対するネガティブキャンペーンは行われませんし、破壊的活動への防衛力があるといえますが、ブログはそういったことにも有効な歯止めが効きません。 もちろんホスティングサイトの規約などはありますが、規約に触れる直接的な破壊的活動というより、言論の自由に則るということそのものがある種の破壊的活動に映ってしまうことにより、大衆に受け入れられない可能性が高いです。 自分の言論の自由は主張したいけれど、他人の言論は受け入れたくないというのが人間ですから。

フィルタにかかった上に適当に権威付けされた情報のほうを好む人のほうが多数派であろうと思います。もちろん最近は社会の(ネットに対する)意識の変化が顕著に見えるのですが、ネットでの「言論の自由」の現場を見て、やっぱりテレビのほうがいいやと思ってしまう人も多数いると思います。

ま、だから「凌駕する必要性を感じない」ですけどね^^;。
規制が入るほど、TV/新聞を凌駕する能力を持ちえる、とも言えるかもしれませんね。

Java の実装の話です。

DBUnit とかいうのを使って適当にテストケースを書いてテスト実行したら、データベースの中身が空っぽに…-_-。これって XML なり XLS に書いた内容でデータベースを初期化するのねT_T。

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