blog: 2004年4月アーカイブ

これから数回に分けて、「批判の受け止め方と批判行為」について書こうと思います。

あらかじめ書いておきます。当記事は感性を否定するものではありませんが中傷を否定するものです。

まず、「批評/批判と中傷の違い」について書いておきます。簡単なことですね。根拠があるかないかです。

人間は陰口が好きなようです。当事者に知らせずに人に関する評価/感想を述べあうという行為は日常的に行われています。ただ、そういう行為全般を陰口とは呼ばないですけどね。通常、陰口とは当人に見えないところで当人の悪口を言う(中傷する)ことであり、当人に聞かれることが後ろめたいと自覚しているような話題を指します。また、特にここでは中傷に該当しない根拠を伴った評価の場合は、当人に見えないところで言っていても陰口とは呼ばないことにします。

私は、陰口は嫌いなので、基本的には当人に聞かれても堂々と対応できるようなことしか言わないように心がけています。例外は、当人の今後の思考/行動に悪影響を及ぼすような内容だが、相談しておく価値のあること、といった場合です。教育をする人の立場を想像すればご理解いただけるかと思います。もちろん中傷のつもりはないのでそれを当人に聞かれても自分は後ろめたくはありません。

さて、web 日記/blog などは「公開日記」であるわけですが、そこで他人を侮辱/中傷するようなことを書いていながら、都合よく「公開」であることの意味を忘れて「個人の日記だから何言ってもいいだろ」といったことを言ってしまう方がいます。

もちろん発言自体は自由です。

でも、内容によっては反論が発生することも必然ですし、何より反論することも自由です。

反論に応えない自由はありますが、反論するなというのはあまりにも周りが見えていない言説です。反論が欲しくないのであればインターネット上に他人への侮辱発言を「公開」してはいけません。「現実世界で普通にしゃべるのと同じくらい気楽に書くんだ」と言っている方、気をつけて下さい。

ネット上に書くということは既に陰口足り得ません。

ここで、反論には、感性/思想の違いから来るものと、事実ではない、あるいはミスリードであるといった指摘があるのですが、前者を不要と考えるのは(多少もったいないこととは思いますが)自由と思います。ここで話題にしているのは後者です。これについては反省すべきでしょう。たまに自分への批判を矮小化するために意図的に混同しようとする人がいます。

日記の中でぼそっと、集団、或いはひどい時は個人を特定できるような言い方で、状況をよく知らないで、或いはメディアの誘導に乗せられて批判を行うということがあります。その行為自体も問題ではありますが、全ての人にそれを駄目だと言うのはあまりに狭量であるとも思います。私もよく調べずに批判的情報発信を行う事もあるでしょうし、説明できない感情の表出も重要な情報だと思っていますから。ただ、批判された側あるいは客観的に見ている第三者が、その批判は間違いである、と指摘/反論することは当然のごとくあり得ます。この反論を指して「噛みつかれた」などと侮辱する人がいます。この勘違いはやめたほうがよいです。たとえ相手に通知などをしていなかったとしても、噛みついたのは自分です。また、批判が発生しないことがあるのは、その言説が正しいからとは限りません。みんな、すべての誤りを指摘して回るほど暇じゃないのです。
(追記)「同意の旨の意見はあった」という多数決論理を持ちだす人もいますが、たまたま自分と同様に専門家で無かったか、単に自分と馴れ合いたい人かもしれませんよ、と。和を保つことと馴れ合うことは違います。これはいつしか別記事にて。

この記事では個人や集団は特定しません。行為を特定しています。思い当たる人でこの主張に間違いが見当たらないと思われたなら、自戒しましょう。この記事の内容が誤りであると思ったなら、どうぞご指摘ください。

なぁんていっても、ここで書いたようなことにもろに該当する人ほど自己正当化が激しかったりするので書いてもなかなか効果がないわけですが。ならばなぜこういう記事を書くかというと、良識のある方が道を踏み外さないよう再認識してくださるという効果はあるからです。本当は自分に向けて/自己の思想の整理という意味が一番強いというのはいつも書いている通りなのですが、教条度を上げて書いてみる実験です^^;。

今「blog で簡単にホームページを」という類いのキャッチコピーに乗せられて参入してくる方は、どれくらいが「全世界に公開」の意味を解っているんでしょうね。それを知らなかった/考えられなかったことは罪では無いと思います。批判を浴びた時に気付けるのであれば。ここで問題点として、騒ぎになるほどに指摘/批判に混じって中傷が現れるのも世の常なわけですが、全てを中傷とみなす自己中心的思考はやめましょう。

ただ、人は本質的に陰口が好き(※1)なわけで、web で陰口を言える仕組み(※2)というのを考えたりしています^^;。私は使いたくないですけど。

※1:私だって、陰口が嫌いと言うのは理性で抑えているのであって、いつ無意識に陰口に該当する行為をしてしまうか解ったものじゃありません。そういうのを正してくれるコミュニティなら属したいですね~。

※2:2ch がそういう使われ方をする場と勘違いしている人が多いですが、2ch でも中傷は嫌われます(ここではネタと中傷の区別というまた難しい問題があったりしますが^^;)。ただ「根拠をうまく説明できないがこう感じる」といった正当かもしれない意見を述べるのに適しているということです。

参考:
思い込み(=レッテル)と批判と紛争

以前 MyClip もした記事「ブログとネットの心理学」に関して。

 公開で何かを記すことは自己説得の効果を持つ。
 この意見には異論もあるかもしれないな、と考えて記したことでも、どこからも異論がないままに過ごされると「俺の考えは正しかったんだ」と思い込むようになることがある。単に無視されている結果であったとしても、無視を賛同なのだと解釈したりする。加えて自分はこういう意見を持つパーソナリティなのだと自分にレッテルを貼ることにもつながる。独り 集団成極化現象みたいなもん。
:
 知識の差が一と百あったとすれば、一のほうは百が何を言っているのかさっぱりわからないだろうし、百のほうは一に何を伝えるにしても背景の知識まで含めて伝えようとするとものすごい手間と徒労がかかるのでどうにもそこまでかまっていられなかったりする。
 触れてもつながれない。違う人とはつながりにくい。
 いきおいブログにおいても似たものが集まり階層・知識のタコツボ化&集団成極化現象が生じる。

そして、お互いにレッテルを貼り合うわけですね~。
批判が無かったからといって、自分の意見が正しいと思いこんではいけません。
また、批判を無視しても私の勝手でしょ、と思いこんではいけません。

まぁ、「いけません」って別に禁止という意味ではなく、するのは自由ですが一般的にカッコわるいだろうってだけですけどね。自分に向けた言葉ですので。価値観の問題と言われればそうでしょうね。他人に迷惑さえかけていなければ。
(追記)
意見が多数に脹れ上がった場合、全ての意見に答える必要はありません。しかしそれを許すのは第三者であって、本人が許してはいけないでしょう。本人は「答えるべきだけれど答えられず申し訳無い」という心意気を忘れてはいけないと思います。それこそが発言に対する責任であるとも。そうしないと、思い込みは進行するばかりです。


で、このあたりの価値観(認識のバックグラウンド)を共にするもの同士がコミュニティ化していったりするわけですが、得てして相手のコミュニティとの紛争の元を発生させるのが、「批判を無視しても私の勝手でしょ」と考える側なのですね。なぜなら紛争の元になっていることを「気付けない」上、指摘を「徹底的に無視」あるいは「ウザイ」という便利な言葉で一刀両断しますから。もちろん百を知る側も一の側を過度に馬鹿にしてはいけないと思います。可能であれば無知を知らせてあげたいところ。でもそう思っていても、「ウザイ」と思われるのならしないですよね。

注意:一/百といった関係はテーマごとにいくらでも逆転しますし変動します。その時自分がどちらがわにいるかを意識する必要があります。そして、「自分は百である」と思いこんではいけません。

「無知」が罪とみなされるか否かには境界線があり、あまりに差があり過ぎるととても教え切れない、それくらいは勉強しておけ、ということになります。この境界線が各自によって異なるのがまた問題で、さらにはその無知に対する指摘方法について、「どのようにするのが親切であるか」の基準も、受け手/伝え手それぞれで異なってしまっている。この両者が紛争無しに理解し合える確率は相当低いといってよいでしょう。

前の記事で予告した「批判への対応」に関するテーマを書く前にひとまずここまでで公開。

なお、私はコンピュータ技術に関しては一応それでご飯を食べているのでプロということになりますが、それ以外に特に「専門」はありません。感覚で書いていますし、誤りもあるでしょう。誤りをご指摘いただけると嬉しいし、それが blog をやっている目的でもありますが、指摘が無かったからといって正しいとは限らない、というのは意識しております。

(追記)
当記事で出した「ウザイ」ですが、これはそう感じた人にとって「ノイズ」であったということです。で、その件に関しては集団コミュニケーションにおけるノイズの定義にて記事を書いています。
当事者からすれば的外れな「ウザイ」という感想こそ「ウザイ」わけです。的を外していないと思うのであれば説明責任を果たすか、それが面倒なら 2ch に行くのが賢明ですね~。
参考:2ch の価値に関するコメント
「2ch の価値」について記事を書こうかな…。

あ、今思いついたこと。
「ウザイ」という感想はいつもメタな視点で語られる
内容そのものは見ないで言う人が多いですね。
あぁ…メタを分析する行為は有用なのになぁ…。

皆さんはコメントやメイルでの一対一のやりとりをどのように終らせますか?
私は長くこういったことを続けてきた結果、以下のような指針を使うようになってきています。

  • 余所の blog や掲示板へのコメントは「書きっぱなし」の覚悟で。
    (返事を気にしすぎるのは辛い^^;。メイル通知のあるところでは安心です。)
    自分からの質問を含むコメントの場合は、そこをしばらくはマークします…。返事は過度には期待しません。
  • 自分の blog へのコメントがあった場合、できるだけ何か付け加えて言える事を探して、お返事。
    お礼/報告系/同意の旨の感想に対しては返事を付けないことが多い。
  • 非公開の一対一のやりとり(メイルなど)の場合、暇な時にはある程度会話的に話が続くが、互いの疲れを感じたら、質問以外の部分には答えないようにして収束させる(もちろん相手の疲れを常に察知できるはずもなく、ほとんどは事実上「自分が疲れを感じたら」だろう^^;)。

ちなみに、トラックバックに対しても、それについて反論/補足などがない限りは、大抵そのままにしてます。「トラックバックありがとうございました」とだけ書きに行くことはないです(もちろんありがたいと思っています)。これは、私自身がそういったメッセージを(特には)欲しいと思わないからです。一言でも補足なり何か必要と思った時は、相手先にコメントするか自分の記事に追記します。別記事を書く事もあるかもしれませんが、今は「記事」の価値を重視するやり方に切り替えたので、可能性は低いです。これは相手に対して失礼と思う気持ちとのジレンマもありますが。木村剛さんのゴーログはその点本当にうまいですね~。


上記は、私の情報重視という価値観から来るものであり、儀礼的にはお礼だけであっても表明したほうがいいだろうなぁ、とは思います。ML のようにメッセージが参加者全員に強制的に届くツールでは、お礼だけのメッセージは煙たがられていますが、blog の場合はそれとは状況が違いますもんね。私は ML 文化を引きずっているともいえます。
ただ、もう一つの理由として、儀礼的な会話が続くのは私だけでなく相手にとっても苦痛であるだろうとも思います。もちろん話題が広がる/遷移していくことを言っているわけではありません。むりやりひねり出した応答が続くようなケースです。そのようなケースでは会話をうまく終わらせることこそ儀礼的であると言えるのではないでしょうか。
なんて書きつつ、いつも「無視されたと思われてないかなぁ」なんて気にしている小心者なんですが^^;。

皆さんはどのようなポリシーでしょうか?リアルの会話ではどうでしょうか?


元々、対話は労力がかかります。文章での対話だとなおさら。いろんな所を見て気にかける人が増えてくると、特定の人にかけられる労力がどうしても減ってしまうので、自分のところにいつもコメントを付けてくれていたあの人が最近はコメント付けてくれないなぁ、なんてことは日常的に起こりますね。これはコメントに限定せず、単に「連絡」と言っても同じことです。

いつも自分の活動を見ている人であっても普通はコメントを付ける(声をかける)という行為に飽きてくるものと考えます(他の関心事との兼ね合いの話です)。少なくとも同じ人だけにコメントを付け続ける人はいません(興味は拡大/変化するものだから)。懇意にしていたサイトには、儀礼的にたまには何か言わないと悪いという気になってしまうことも、苦痛の元になるはず。そうすると、(対象を限定して言及可能という意味での)身元が割れる立場でコメントを付ける事には抵抗がある人もいるかもしれません。繋がってしまうという抵抗が。

もしこれが全体に適用可能な論だとしたら、もったいないことだと思います。本当は、抵抗なく感想を書いていただいたほうがみんな嬉しいはずです。

どうすればいいのでしょう?

そのような事を考えた末、出てきた答えの一つが冒頭のポリシーであったりします。男性的である、とは思いますけれど^^;。
しかし、おそらく私だけがそんなポリシーだと言ったところで、儀礼的な返事を要求する人は絶対に存在します。
特に儀礼的なコメントをまめにしている人/会話自体が楽しいというタイプの人からみれば、腹立たしいということもあると思います。はい、正直、すみません_o_。心の中ではいつも感謝感謝です。

あと、「返事」ではなく、自分の言説に対してコメントを欲しいという立場で意識することは、こちらで書いたのですが、基本的に自分の魅力不足と捉えて精進するのが吉であると思っています。まぁ、私の所がコメントが多いかどうかは何ともいえないですが、私が儀礼的コメントをあまり書かないことは客観的に見て、コメント率を減らしているだろうなぁ、とは思います^^;。真意としては、儀礼にこだわらず、気楽に書き捨てていただいて構いませんです、という立場のつもりなわけです。

全てに対して何らかの応答をする方は素晴らしいと思っています。私はあくまで立場として、それが逆に、感想を書き辛くさせる可能性があることと、自分の労力との兼ね合いでこのようにしているというだけです。

もう一つ、「批判的コメント」の受け取られ方についても触れたいのですが、これは別の記事で書こうと思います。

参考:
muse-A-muse:儀礼的無関心と「ウザイ」の幼稚性
批判の受け取られ方について触れられています。別記事で再度トラックバック予定です。
it1127の日記 : ■思いのままに33
コメント数の増減に関して。
Web では共感を探しているのであってコミュニケーションを探しているのではない
コメントを付ける人の絶対数が少ないことは必然。

書く側も読む側もそう。

自分の考えを補強/否定してくれる資料探し。でも、書籍などの資料漁りとは違って、そのような考え方をする人探し。
blog を bookmark する/RSS reader で subscribe するといった行為は特にそういうものだと捉えている。その人との直接のコミュニケーションは、発生するかもしれないが副次的なもの。著者側の視点に立つと、アクセスがあること自体が共感であると思いこみたいわけである。その先にある対話をさらに望むことはもちろんあるが、その場合、おそらくそこそこ多くの人が望まない批判勢力との論争とも対峙しなければならない(私はそれも望むけど^^;※)。だから、限定的な対話を望む人が多数いる。(用法を誤っているので使いたくないが、今や状況を指すだけなら最も通じやすい用語となってしまった)儀礼的無関心を望む人。

…という考え方もある&私は積極的にそうしている。そして、それは実は「Web を通して人と繋がる」と考える人の根底にも存在する可能性が高いのではないか。


なぁんて、また煽りタイトルで超べたべたなメタ論を書いてみたり^^;。「web 全て」いっしょくたに語るつもりはないです、もちろん_o_。blog になって、対話的コミュニケーションの可能性がどんどん主張されていくけど、本質的にはテレビなどと同様であり、そしてテレビ/書籍などより人を身近に感じることができるため、共感しやすい、ということです。「身近」はフィードバックのしやすさから来るものであり、blog は今まで掲示板など別の場所でなされていた(それでも他のメディアより楽だった)フィードバックをより直接的にしたということで、実際にフィードバックするかとは無関係に共感のしやすさを増幅したけれど、やっぱりそこから始まる対話的コミュニケーションって副次的効果だなぁ、と。要するに、過度に閲覧者にコメントなどを望んでも、たぶんなかなかそうはならないだろう、と。
タイトルは「常に/多くの人は~探しているのではない」とするほうが正確ですが、それってあまりにも当たり前過ぎて、自分の言いたいことを伝えるのに足りないと思ったわけです。すみません。一応、格言風にしたかったというのもあり^^;。

あと、「blog はコミュニケーションツールだ」なんて言説あるんですか?という正しい認識の人にとっては、やはりあたり前な話と思います。

※中傷とは対峙したくないですね。批判は歓迎~。

注意:もちろん"コミュニケーション"は bookmark した時点で成り立つ、下手したら見た時点で成り立つ、とする考え方もあり、その観点で言えば上記も「コミュニケーションを探している」と言えるし、そのことを指して言っている人もいると思う。この文章の文脈においてはコミュニケーション=著者と読者の直接の対話、としている。

…読み返さずに公開っ^^;;。
(で、とりあえずの追記)コミュニケーションを求めることを否定する類いの記事ではない(つもり)です。そこんとこを強調しときました^^;。ってか、木村剛さん関係のオフ会、時間があれば行きたかったし^^;。

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