blog: 2005年6月アーカイブ

私には見難くてしょうがないんですが。

もちろん何でもかんでも文中括弧書きが見やすいと思っているわけではないですけれど、文末やページ下に脚注が載ってても、脚注の記述対象を確認するのが億劫で元の文脈を取り戻せないので読むのが嫌になる人です。

HTML での脚注ならリンクと ALT+←で行って戻ってくることが大幅に楽になっているのでまだいいのですが、私の場合、それでもあまり読む気になりません(*)。脚注だけで2-3行を超えるくらいの分量になる場合は仕方ないですが。

*:HTML は紙媒体と違って1ページの分量がばらばらなので、脚注が5つも6つも、ということが往々に起こりますが、読むのがとても苦痛です。…と思ったら、いまどきの HTML での脚注は title 属性に脚注本文を入れたりしていて、マウスオーバーで読めるようになっているみたい。これは知らなかった。便利^^;。気づかれないと悲しいですねぇ。

脚注を文章の左右に配置するのはかなり嬉しい手法です。とにかく、今読んでいる本文の位置と脚注の関係を見失ったり、確認するのに視点を動かさなければならないようなものが嫌いなんです。

でも論文をはじめとして、本文中にこういった補足事項が含まれることを嫌う人のほうが多いようです。
なんででしょう…?(純粋に質問)

用語の一般的な説明などは、それを既に知っている人にとっては不要な情報なので脚注を使うのが適していると思います。
紙媒体であれば、URL なんかもそこをわざわざ読みはしないので脚注でしょう。

そうではないもの、特に著者の主張が含まれる補足的事項はできるだけ脚注にはして欲しくないのです。皆さんはどうでしょう?

私はこの記事でもしているように、()書きがさすがに辛いと思ったときは、なるべく近い段落の直後に記すようにしています。このような書き方がどれくらい見難いと思われているのかにも同様に興味があります。ちなみに、雑誌記事などに寄稿したときはこの記事のような書き方をしていてもしっかりページ下部の脚注に移動されますが^^;。

現状のblog界隈のやり取りや言説の流れるさまを見ると、2、3日程度の期間で発生するスパイク・ブームの連続・重畳が主たる様式であり、同一のテーマが継続的/持続的に議論され、時間をかけて合意(あるいは決裂や破綻)に至るようなプロセスはあまりないようです。
人々は目新しさを求めているのでしょう。一瞬の盛り上がりを楽しみ、次の瞬間には別の波を探しているのでしょう。

檜山さんへの言及というわけではありませんが_o_。
昔ここにぽろっと書いたことですが、その空気は悲しいかな、当時の自分にすらあったわけです。
ま、それでも

でも、書くけどさ。

ってなわけですが。私は今は引用したりおいらクリップでピックアップする記事に古いも新しいもありません。おかげで、言及されることは少なくなりましたけど^^;。

この問題についての意見を久々に見てふと思ったのは、「みんなものすごい勢いで話題を消費していっているわけだけど、ほんとに消費されちゃってることが多い」ってこと。

インターネット上ではよく、「そんなのはウン年前から言われている」とか「そんな古い話題を」といった意見を見かけたりするわけで、まぁ実際そこで議論し尽くされていたりすることもあるのですが、その経緯と結論と原因をきちんと理解している人は、これらの言葉を発する人の何割くらいでしょう?

その話題が過去にあったことだけが頭に残っていて、それだけで「私はもうその話題は知っている」と言わんばかりに「いまさら」と言ってしまったりすることはないでしょうか?

消化吸収するのは大変です。そのわずかながらの助けになるのは日記だったりするんですが、自分の言葉を少しでも多く書いておかないと、それを見てどう理解したかは結局忘れられていくんですよねぇ。

せめて「知っているだけ」のことと「(自分なりにであっても)理解した」ことを自分の中で区別していくようにしたいものです。

(追記) 2004/06/11
タイトル変更。及び関連リンク。
検索つまみ食い文化による偏向思想の植え付け

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