others: 2005年1月アーカイブ

What You'll Wish You'd Known
「知っておきたかったこと」
最初、どういう意味か分からず、ただ皆がリンクしているのでいい文章なんだろうなと思っていた程度でしたが、読んでみて、なるほど、「高校生のうちに知っておけばよかったなぁと思うこと」ですか。

What You'll Wish You'd Known
こちらでは、他の方に引用された箇所がハイライティングされていてますます興味深いです。それだけ引用したい名文がたくさんある文章ということですね。
私もこれに乗っかって、まだ引用されてない箇所から^^;引用してみます。

書かれている内容は、割と自分が過去にここに書いてきたことと合致してて、そういう意味ではある意味当たり前なことが書いてあるといえるのかもしれないですが、当然すごくまとまっていて、且つ高校生に向かって語りかける調子ですごく読み心地が良いです。

序章ではセルフハンディキャッピングについて書かれています。

彼らがぼくらと同じなんだとしたら、彼らはすごいことを成し遂げるためにものすごい努力をしたってことになる。そう思うのはこわいから、ぼくらは天才というものを信じたがるんだ。ぼくらが怠けている言い訳ができるからね。もし彼らが、魔法のシェークスピア属性やアインシュタイン属性のせいで素晴らしいことを成し遂げたんだとすれば、ぼくらが同じくらいすごいことをできなくてもぼくらのせいじゃないことになる。

他人を天才ということにして、自分は天才じゃないからというハンディを課すことをセルフハンディキャッピングと呼びます。

卒業演説方式では、きみはまず20年後にどうなりたいかを決めて、次にそこに至るには今何をすればいい、と考える。ぼくが提案するのは逆に、将来のことは一切決めないでおいて、今ある選択肢を見て、良さそうな選択肢がより増えるものを選ぶってことだ。

目標は敢えて急いで見極める必要はない、と。 人は最も興味を持っていることに対して最もパフォーマンスを発揮できるわけだから、皆本来は最も興味を持ち続けられそうなものを探す人生という旅を歩み進んでいるわけです。人生の早い時期に、興味を持ち続けられると確信できることがあればそれはよいことですが、一長一短あって、確信に至る前に選択肢を広げるために行ってきたことは、場合によっては一心不乱以上に価値があることも多々ありますね~。

たいていの人は、自分がやってることを上手くできるようになりたいと思う。いわゆる現実社会では、この要求はとても強い力なんだ。

この一節はすごく深いと思いました。 上手くできるようにならなければならないという見えざる要求ですか。

そして最後に来るのは「好奇心」で、上に書いた「人は最も興味を持っていることに対して最もパフォーマンスを発揮できる」がこの演説の根底のテーマかな、と思いました。

結びの言葉の

さあ、始めよう。そうすれば、君達は史上初めて、高校の時に時間を無駄にしなかったと言える世代になるかもしれない。

も、いろいろな意味で(単に賛同ではなく)考えさせられます。そして、この演説が高校のお偉いさん方の反発により実施されなかったということも。

自分の方針からしてこういったちょっとしたやり取りで小さい記事をあまり増やしたくなかったりもするのですが、コメントできないところでは仕方ありません^^;。

1. 「BLOG of the Week」において、転載に近い形での掲載を事前に許可するブロガーは、トラックバックにおいて、「投稿」であることを明示する。
2. 「投稿」であることを明示する方法は、(1)タイトルにおいて、投稿:、[投稿]、等と明示する、(2)文章の末尾や追伸において、「これは投稿です」等と明示する、(3)文章中に、投稿であること、もしくは、転載を事前に認可することを書き込む、こととする。

1 は、まぁやっぱりその方が妥当ではあるんだろうなとは思うのですが、2 は受け入れられないというか忘れられるであろうというか、やりたくてもやりにくいと感じる人が多いのではないでしょうか。

本当は(blog of the week への(*))転載許諾の意図がなかった軽い記事でも「これは良い」と判断された証なので引っこ抜きのほうがいいと思うくらいですが(実際掲載された方で不満を述べられている方は見かけないし、自身の記事の転載に対する不満を表明すれば個別に対応を考える、というルールのはずですから)、一応事前許諾を前提に案を出しておきます。

転載許諾専用のトラックバック URL を作ります。非公開の記事として作れば良いのではないでしょうか。(追記あり)
で、個別ページのテンプレートを弄って、記事へのトラックバック URL の下に、その転載許諾意思表明用トラックバック URL も記載して、許諾する方は両方の URL に ping を飛ばしてください、と書いておけば良いのではないでしょうか。

転載許諾の旨を文章で、しかも無関係な第三者にも見える場所で表明するのははばかられる方が多いと推察します。
上記案なら機械的手続きであり、手数が少なく(2行コピーするだけ)、実際に掲載されるまでは第三者には知られることもなく、おまけに掲載許諾された記事を簡単に(サイトオーナー側で)一覧できるというおまけもついてきます。

*:書籍への転載になるとすっぱ抜きでは事後処理がしにくいので話が違ってきます。

philosophical: 何で転載された当人からの異議がないのに揉めてるんだろう? にも書きましたが、リンクではなく転載であるからこその利点もあります。また、事前承諾では隠れた名文を掘り出すのが難しくなります(ただし公平な選択眼があることは前提ですが)。事前承諾というポーズが不可欠だったとしても、明示的な拒否の意思がない人ができる限り許諾できるような方式であるほうが有意義なのは明らかですね。spam ではないのですし。

(追記)
単純に新しい記事として作成してしまうと、「最近のトラックバック」にリスティングされてしまうので、隠し blog を作るのがよいですね。
あと、ずっと固定だとその URL に spam が来易くなるので、定期的に URL を変えるといいですね。その場合その都度テンプレートを書き変えるというのもナンなので、そこはもうひとひねりあったほうがベターですが。
記事を公開するたびに自動的に ping url が二つ生成されるように改造すればベストなんでしょうけどねぇ。

…頑張れば外部からそのサービスを提供することもできるな…と、ふと思ったり…。

(追記)
文脈の説明がない、主にトラックバック先の方への意見に相当する記事は、今後タイトルに[コメント] と記してタイトル一覧から(自分が後で読むときに)読み飛ばす対象としての目印にしようと思います。

週刊!木村剛 powered by ココログ: 「検事の視点」と「弁護士の視点」:ブログはコミュニティだ!

久しぶりに木村さんの記事に関して。準転載に関することは昔コメントしたこともあることですし。

本題の前に。
最近は週刊!木村剛を読みきれません^^;。こんなペースで記事を出されると未読が溜まって読めなくなる人が他にも多く出るのではないかと思ったりするのですが、どうなんでしょう?
あくまでも「参加型」であるから、参加する意識の方なら読み続けると思いますけれど、「読者」にはちょっときついなぁ、と個人的には思ったりします。

まぁそういうことも想定して各記事にコーナー名が書かれているのでしょうけれど…。

で、本題ですが、
なぜ全文引用を繰り返すのか
木村剛氏の「ブロガーとしての資質」を問う――自分のものとして取り込みたがる人々 [絵文録ことのは]04-12/13
あたりが(今回自分がテーマにしようとしている件の)火種ですか。

うーん。ドンキホーテの件はリンクを張れば済むレベルであったとは思いますが、引用が合ってもしかるべき状況であり、別にリンクがないわけでもなし、引用を超えて転載ではあれど、それほど声を大にして言うほどのこととは思えないですねぇ。
当事者がクレームを付けるならともかく。

それでも、「リンクという手段で十分でしょ」と提言するのは当然ありと思いますが(木村さんは単にそのあたりのマナーみたいなものを知らなかったでしょうし)、後者の松永さんの文章は半分はその通りと思いますが半分は言いがかりだなぁ、と。

例えば「批判に対して名指しもせずに慇懃無礼な対応をしている」といった指摘は、私もあぁそうだなぁ、立場を守りたいとはいえそれは逆効果だよなぁなどと納得するのですが(あとプロパガンダめいている点も認識してたけどスルー。読む側がリテラシー向上するしか)、その指摘だけならともかく、タイトルの付け方もそうですが転載の件をメインにして多数の批判的視点ばかりでたたみかけようとしているのがありありと見える文章なので、木村さんの性格を考えると^^;そういう対応がされるのも予想できます。「人格攻撃と混同しないようにお願いしたい。」と一応は書かれてるんですけどねぇ。

「転載」ですが、当時は blog の内容を書籍化するという背景で行われたことであり、BLOG of the Week というコーナーは、書籍を基本的に週刊!木村剛に掲載された文章で構成するという点と、読者の文章もできるだけ掲載したいという点から生まれたルールで、それ自体はさして問題ないと思います。「リンクの価値」はありますが「リンク先が消滅するリスク」もあります。それにリンクを辿る人が引用を読む人の何%かを考えると、転載されているほうが主張を読んで貰える確率は高いということもあり得ます。ただ、今確認したらトラックバック URL の所に注意書きが見えるようになっていないようなのでそれは良くないなぁ、と思いましたけど。

Unforgettable Days: クローズドコミュニティ(仲良しクラブ)へと退化する?週刊!木村剛
を見て思ったのが、UnfogettableDays さんですら、「「任意転載」の問題をどうするか?だけだと思っています。その問題を、現在、転載問題に始まり苦言を呈しているブロガー達が納得できる形に変更すれば良いのです。」とおっしゃるほどに転載問題は重要なんだろうか?と…。
私も上に書いたようにルールを見つけやすくするといった不足点の充実は必要と思いますけど、例えば転載許諾の意思表示という話がありますけど、こういうのってオプトインよりオプトアウトのほうが意外性が出やすいものなので、あくまで仕組みとしては、嫌なら後から拒否できるという現行ルールのほうがいいんですよね…とか。


後は資質、ですか。もうそのあたりは似非評論家の領域なので「どうでもいいやん」というレベルの話ではあります。言うのは自由ですけど^^;。

さて、そのようなわけで、少なくとも「転載」の部分に関しては木村さんが望むようなポジティブコミュニケーションで十分解決できた問題のはずなのに、なんで揉めてるんでしょうね…。
木村さんの対応がまずい方へまずい方へ誘導されているかのような。

木村さんとしてはそれが言いたくて「検事の視点」なる言葉を使ってしまったのでしょうね。
当時思っていたより「煽り耐性がない」というのは他の方も言われていた通り、私も思いますけど、木村さんくらいの反応は「普通の人の反応」だとも思います。まして現実がなにやら大変そうならなおさらですが^^;。

トラックバック削除もそうですが慇懃無礼でいわれるように「批判の時だけリンクもしない」というのは、私は木村さんは批判に誠実に対応する方という認識でいただけにちと悲しいので、その辺は変に工作しないで反論するか放置すればよいと思うのです。木村さん側にそういう問題点があって吹きあがった一件ではありますが、提案を含むか改善を期待するようなぶっちゃけ愛のある批判なのかこき下ろすための批判=非難なのかで対応を変えられたとしても読者はついてくると思います。ただ対応を変えるというのは、基本的に誠実に答えるか無視するか、です。まぁおばかネットワーカーも多いのでたまには皮肉も言いたくなるかもしれませんけど^^;。

あぁ、既にさまざまなツッコミがありますが、トラックバックの削除は spam 以外に対しては一切しないほうがいいと思いますよ。この状況だとなおさら。

Freezing Point -  ≪課題共有≫に向けて

すごく簡潔にまとまってるなぁと思いました。
ただ、「何度脱落しても、自由に再復帰できる社会」はほとんどの人にとって納得のいく課題と思うのですが、例えば引きこもり系のマイノリティには、その根拠なきプライドだけが生きがいだったりして、脱落であると認めなければならない時点で死んだほうが幸せ、とか言う人もいそうだなぁ…。
もちろん、用語的にはマイノリティ=脱落では決してないですが、この文脈ではマイノリティとしてやってきた結果、幸福ではないと自覚した段階の人を指しているのだと思うので、そういう意味では脱落であることは認めているんでしょうけれど、問題は他者からも脱落であると見えるかどうかですかね。

まぁ現在は再復帰しようと努力している人ですらその後の幸福への期待が薄いのでしょうから、当然再復帰しやすい社会であって欲しいですが。
或いは幸福感だけに着目するなら、「脱落を感じさせない社会」がいいのかも知れず、ということは only one がどうのこうのというのはそういう動きなんだろうなぁ。でもなぁ…。
自分の意見がないので「おいらクリップ」にしようと思ったけど単に長くなったのでこちらへ

追記:philosophical: 最低保証を引き上げれば「再復帰でき」「脱落を感じさせない」わけだが…

void GraphicWizardsLair( void ); //より。

考えることや新しい情報を知ることを楽しいと思えない若者が増えている。ゆとり教育の目指すところと逆の結果になっている。しかし、「ゆとり教育」と称して実際何をやったかを考えれば納得はいく。ゆとり教育は環境を整えるだけで、根本的なことは何もやっていない。いや、何もできないと言った方が正しいだろう。楽しいと思えないことを無理やり楽しいと思わせるのは不可能なのだ。
いや、本当は無理やり「楽しい」と思わせることはできないことはない。例えばテストの点を競わせて、他人に勝つことや点が上がることの優越感を「楽しい」と思わせることはできる。そして、それを考えることの楽しさだと勘違いさせることはできる。しかし、本当にそんな方法でいいのか?知らない状態と勘違いしている状態とでは、どちらがいいのだろう?
結局、ゆとり教育と称してやったことは、生徒たちを全然関係ないエサで釣って無理やり勉強させようとするのをやめたこと、そして自分から勉強したいと思うまで見守ることである。だから、自分から勉強したいと思わない生徒の成績が落ちるのは当たり前のことである。そして、それは変な勘違いをして将来性格のねじ曲がった大人になるよりはマシだと判断したのである。

最近、ゆとり教育の弊害をクローズアップする論調をよく見かけます。私も害のほうが大きいという気はしていますが、現在の論調になる以前はそもそもゆとり教育なるものをあまり興味を持って見ていなかったので、当時どう思っていたかはわかりません。

ただ、本文冒頭に記されている「ゆとり教育による学力二極化」についてはその通りと思いますが、考えることを極度に面倒くさがるという現象がゆとり教育のせいであるとはあまり思えないです。

人間の知的好奇心は絶対になくならないので、競争心/向上心のある数%の人はゆとり教育化の影響なく伸びていくでしょうし、それ以外の人にしても無理やり勉強させられていた時間が空いた時間になったとしても、各自なりに好奇心を満たすための勉強はするはずです。ただ、興味あることしかしない分偏り(オタク率:p)が出やすくなって、一般に言う「学力」は低下するでしょうけれど。

ここで「考えるのが面倒くさい」となる理由は拘束されたとか時間ができたとかではないですよね。

問題は多様化とそれに引きずられた消費者優先社会です。リンク先でも「大部分は社会のせいである。学校のやり方を昔に戻したら昔のようになると思うのは大間違いだ。」と述べられている通りではありますけれど。まぁ、今に始まったことではなく資本主義になってからずっと積み重ねてきたことですしね。

選択肢が多すぎて迷う、という問題について書いたことがありますが、それに加えて、「あまりにも解が世の中に溢れすぎて、自分で考えて答えを導き出すのがばからしくなる」人が増えているのではないでしょうか。

消費者が神様な上に不景気も重なって、とにかく便利な物を面倒ごとなく提供しないと供給側が生きていけない状況で、子供にしてみれば一言言えばどこかからほしい物が降ってくるのも当たり前、となりかねません(それを防止するのが親の役目なわけですが…)。考えなくても探せば解が見つかる、探すのも面倒だから聞けばいい、聞くのも面倒だからもっと楽できる遊びで済ませる、それでも満足できてしまうほどにできそうなことは多様化しているのだから、と。

そうやっていくうちに、いつの間にか自分にできることがすごく限られていることに気づく。そりゃそうだほとんど学び/考え/経験してないんだから。供給してくれる誰かがいないと何もできない、そして、ニートなる現象にもいくらか結びつきやすくなる。

ちょっとニートを連想して話題がずれたのでその辺は別記事にて。


(追記)
ふと思い出したのですが、スタンダード 反社会学講座に習えば、ここで書いているようなことは、単に印象だけから感じる杞憂である可能性も多分にあります。単に「そんな気がする」だけです。
特に、「自分は若い頃考えるのが面倒ではなかったのか?」と考えると、当然のごとく面倒だったわけです。ただし、興味あるもの=趣味に関しては一所懸命考えていたのは本当。そして、現在の若い人たちが総体として「考えることが面倒になっている」と言えるのか?というと、はっきり言って私は根拠のある統計的資料など知りません。社会が「考えずに済む」ように変わっていけば、個人は自分が考えたいことを考える時間ができる、とも言えるかもしれませんしね。

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