thought: 2004年2月アーカイブ

全ての親へ

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あやかパパの記憶

すばらすぃ…全部読んでください。

文句の付け所が無いとはまさにこのことって感じでした。
共感し過ぎ^^;。

感動も情景も言葉にするのがまだまだ下手な私ですが、あやかパパさんの思想はまさしく私の目指すもの、という感想です。それでいて私と違ってそれを表現する能力がまた素晴らしい、と。
嫁さんにも是非読んで欲しい^^;。読んでね。

お子さんのいらっしゃらない方にはこちらで書かれていることにどんな感想を持たれるのだろう…?
「100%無垢な愛情」を知らない、或いは忘れてしまった方たちは…。
自分だったらどうだろう。
5年前だと読み流していただろうか…?
いや、少なくとも思想、教育方針には今と同じように共感していたはず。
けれど、今のような感動は感じなかったかもしれない。


お子さんが自分でこの日記を読み、理解できるようになるまで続けばいいですね~。

私はあやかパパさんを(目標とするのではなく)参考にさせていただき、自身の信念に基づき自己の向上と子供の教育に挑みたいと思います。

正直、自分も子供の小さい時からの記録を後で思い出せる形で残したいと思ったけれど、どうするかは考え中^^;

あやかパパの記憶: 子供の創造力とイマジネーション
うちは「ひねもす」やってます。3歳なのでまだちと早い感じではありますが^^;。
あやかパパの記憶: 習い事(お絵かき編)
大きな画用紙、よさそうですね~。
あやかパパの記憶: 集中・継続する力
「読書離れ」などは割と昔から言われていますが、こういうことなんですねぇ。
ゲームに熱中していたならまだいいのかも。
今は積極的な思考が必要なものではなく、流れ込んでくる快楽にばかり熱中する人が増えている気もしますし…。

なぜこんな行動を?
私には理解できません。

いいえ違います。
解っているがそれを認めたくないだけ。

ではなぜ認めたくない?
単に自分と違うから。
善悪では無い。

何も受け入れる必要はない。
ただその存在がある事を認めよう。

そして、その人を変えなければならないのか、考えよう。

[続・察]

ある些細なきっかけで、一気に人々が本音を言い始めることがある。

すばらしい洞察。

人が口をつぐむのには理由があります。
おっと私は結構何でも言っちゃうほうかも^^;。
でも、やっぱり希に逢えて言わない/言えない事もあるな。

言えないようなケースでは、なんとか察して欲しいと思っているはずです。
でも、それは「察してほしがり」だから、ということばかりではありません。
言えない雰囲気を周りが醸し出していることも多々あるわけです。

周りの人間としては、人の気持ちを察するよう努力するよりも、
人が本音を言える雰囲気作りに努力すべきと思っています。

元記事ではこう締めくくられています。

こんなに、察することについて感じるのは、
なにより自分が、察してほしいと思っているからなんだろう。
自己の正当化には、ほんと必死なもんである。
アマちゃんだ。

ほんとに素晴らしいですね。共感しきり。:)

何より、自分はどうだろう?と考えることが重要ですね。

自分は察して欲しいと願っているのか?
自分から本音を言いだすことはできないのか?
自分が人に本音を言えなくさせていないか?
そして、他人に察せよと強要していないか?

[俺と100冊の成功本 blog.自己啓発.com: 「ついてる」と言ってたら、気持ちに変化が起こった]

「ついてる」と言うのを、最近むりやり口癖にしてます。
そうしたら、気持ちの中に意外な変化がありました。
気持ちが穏やかで豊かな感じになりました。

[雑記: 継続は力なり]

思ってもいないことを言い続けると、自分の中でそれが本当になるときがある。

幼少期の話と同じ。
親の話なんてだいたい脚色だらけだろうが、何度も聞いているとそれが映像化されて、
あたかも自分の記憶のようにしてインプットされることがある。

ほぼ洗脳である。

私は気持ちの持ちようとして、「人生に無駄な経験はない」と考えるよう心がけているんですが、お二方は「言葉にする」ことでそれがより具体的に効果として現れるというあたりに踏み込んでいらっしゃいます。

私は「言霊」はあまり信用しないクチではありますが、心がけも心に閉まっているより何らかの形で表現したほうが、より具体的になり、場合によっては外的な変化を招いたりしそうです。


私は口でいうことはほとんどないんですが、文章とすることが思考の明確化に役立つと考えているため、この日記も書いていますし、ML などでもできるだけ積極的に発言したりしました。もともとは論理面の明確化が目的でしたが、効果はそれだけではない事も実感しています。

ついでに言うと、他の人と比べて言葉にするのが如何に下手であるか、も実感しています^^;。だから頑張ろうとしてるわけですが。

ちょっとメタブログおば^^;。特定のどこを見てというわけでもないので refer できず_o_。

いわゆるホームページブームに乗って「ホームページ始めました」と言って数週間で更新が止まる、という方はきっと多数いらっしゃったと思います。で、ブログブームでも同じ事になるだけだね、という悲観的なんだか大上段に構えたいだけなのかよくわからない意見がでたりするわけですが(いや純粋に分析としては正しいと思いますが^^;)、ちょっとやってすぐにやめる人をばかにしてはいけませんよね。

ウェブログをどのように使うかによってももちろん変わりますが、ウェブログは当時のブームでいう「ホームページ」と同じく、自分の表現したいことを表現する場です。表現したいことがあれば書き足されていく、一通り言い切ったら(言うことが無くなったら)終了するというのはごく自然なことと思うわけです。

最初からそういうスタンスで、あらかじめ明言している人もいます。

もっと言いましょう。所詮趣味、遊びなんですから、興味があれば始めて、楽しければ続けて、他のものに興味が移ったらやめる、それだけです。それでその人の目的は達成されたんです。
その短期間でもたくさんの人の参考になる、あるいは感動を与える記事を書く人もたくさんいます。

こんなことはすべての人が行っているはずなのに短期間でやめる人たちを非難する(とまではいかなくても馬鹿にしている)ようなものいいをする人がいます。これは何故なんでしょう?

「自分は長く続けているからえらいんだ」ということになるんでしょうか?
いや逆に実際に長くやっている人はそういうことは言わない気がします。

やったことない人のほうが言いそうです。どうせ一時的なブームだろうから自分は手を出さないんだ、ブームに乗らない私は利口だよね、といったところでしょうか?

手を出さない人より手を出した人の方が将来的に人に語れる話題は増えてるんですけど。

つまり、「ブログというものを体験してみる」だけでも目的として充分でしょう。
皆さん飽きるまでやりましょう~。^^/

知っている人は多いでしょうけれど。

http://pya.cc/

というサイトがあります。先日この中のイメージランキングを見ていて、久しぶりに夜中に画面を見ながら一人で吹き出してしまったのでした。
# 普通吹き出すまではなかなかいかないですよね?

最近テキスト(プログラム/文章)とばかり付き合ってきた気がするけれど、上記を見た時ほど笑った記憶が無かったので、テキスト漬けな方へ特にお薦めします^^;。

お気に入りは「ケコーン式」「おかずセット」「おもちゃを買わなかった翌日、娘(5才)のささやかな反抗」などなど。
笑える系以外にもなんか感情に訴えかける写真がいっぱいありました。

書いてたネタと被るのがココログスタッフルームに…。

私はソフトウェア開発なんぞをやっていたりしますが、ソフトウェア開発においては、お客さんの要求(お客さんがコンシューマであれば「需要」となりますが、ここでは企業を例として)を分析する作業が必須です。ろくに分析を行わずにお客さんに言われるがままに機能や内部処理を決定していくと、必ず不整合が発生し、それを取り繕う作業に開発期間の半分以上を費やされることになります。

お客さんが望んでいるものを正確に把握しなければまともな設計は出来ません。把握し、整理する作業を要求分析と呼びます。

まず、お客さんの要求をひたすら聞き取るという作業が行われます。ヒアリングです。
それを箇条書きにする所までは誰でも出来ます。が、この段階でも、「何を聞くべきか?」を判断するには経験に基づくセンスが必要なのですが。

とりあえず要求の一覧ができたとしましょう。でも、ここからが出来る人間が少ない。


聞き出した、或いは見つけ出した要求はまずその出所となる目的を明確にしなければなりません。
お客さんが目的を明確にできるケースは少ないです。
お客さんは通常、今までやって来たことができることと、こんなことができたらいいなぁという思いつきで要求を出します。
なぜその機能が欲しいと思ったのかを見いださないと、必ずといってよいほど後で気が変わってしまいます。

なので、まずやるべきは要求のリストを目的のリストに変換することだと思います。
そうすると、目的を実現するよりスマートな方法が大抵はでてきます。
こちらがお客さんの目的を把握した上であれば、こちらからの提案も受け入れてもらい易くなります。

目的の見極めが正しければ、余計な開発をせずに済み、且つ、のちの仕様変更の可能性を減らし、且つ、仕様変更があっても対応し易い設計を行い易くなります。

この「整理」作業なしで「分析」フェーズを終らせてしまっているケースが多いなぁ、というのが感想なわけです。

んで、ソフトウェア開発に限らず、何か他人の期待するものを産みだそうとする時全般に通用する考え方だと思うので、この能力を鍛える努力をしましょう。という所で今回は終りにしておきます^^;;。
実はあんまり勉強してない自己流なので、あんまり突っ込んだ話すると用語やらが怪しい可能性が^^;。でもさぁ、これほんと出来ない人多いのよ…。

儀礼的無関心関連のコメントの中から、もやもやしていた部分を晴らしてくださる一文が。
[はてなダイアリー - 明日の読者]

確かに「公益」を満たすためにはそれぞれの個人がそれぞれ折り合いをつけなければならないでしょう。しかし、それならば「儀礼的無関心」は成り立ちません。関心を示し、覗き見、冷笑を加える者の「権利」も、それを希求する権利を認めるとすると、少数のヒトに関心を示して貰い、覗き見は勘弁してもらって、自分の文章に冷笑される事を厭うヒトの「権利」は侵害されます。常に権利と権利の衝突と調整が起きるだけになってしまうじゃないですか。簡単な論理矛盾ではないか?

経緯はこちらを見るのがよいかと思います。

なんだ、誤用だったのか>儀礼的無関心
にも書いたように、そもそもここで議論されている問題を「儀礼的無関心」と呼んでしまった事が問題なんだけどそれは置いておいてっと。

「覗き見する権利」はあるが「見られたくない権利」もある。「リンクする権利」もあるが「リンクを拒否する権利」もある。「赤裸々なことをWeb上に書く権利」もあるし「それを見たくないと主張する権利」だってある。「サイトを畳む権利」もあるし「見たいと主張する権利」もある。すべてのことについて「主張する権利」があるし「聞かない/拒否する権利」もある。

何らかの権利を行使した時にはほぼ全ての場合に他の何らかの権利を侵害している。
すべての権利を守るのは不可能なので、「守られるべき権利」というものが生まれてくる。

誰のどの権利が守られるべき権利なんでしょう?
この問題に限らず、常に意識したいものです。

レビュアーとか上司って、よくこういうことを言うわけです。
あと、既存のサービスに対して技術者の観点で文句を言う場合もそうですね。
評論家もか。

自分がそれに近いことをやったときにふと思ったことですが、ある程度の経験があって自信過剰になってくると、こういう言動が出易くなるように思います。しかし、実際に自分がやってみると穴があったり、存外に苦労することが多い、と。また、「いろいろ」の中のどのやり方にするかを選別するのにかかるコストが並み大抵ではないということを忘れてしまうことも多いですね。

で、とにかく「そのやり方じゃダメだ」と言いたい場合に使われる。
ただ「ダメ」というだけよりはよっぽど良いのですが、もし対象が協業者であるなど、相手の出来具合が自分にも影響を及ぼすような場合なら、相手のそれまでの苦労とこれからの苦労を意識して発言したほうがよいですね。
自分への影響が完全に0、というケースは実はあり得ないんですけどね。

自分がやるならどの方法を選ぶか?
自分がやったとしたらすべての問題を妥当な時間で解決できるか?
すなわち「それは本当に適切なアドバイスであるか?」です。

ただ、こういう場合のよくある指摘として「んじゃやってみろよ」とか「自分は出来ないくせにそんなこと言う資格はない」とかがありますが、これは間違った指摘の仕方だと思います。

自分で出来なくても言ってもいいでしょう。ただ、自分がやらない立場であるならば、相手がそうできなかった事情を想像し、たとえ提案に確固たる自信があったとしても、思いも寄らない穴があるかもしれない、と考えながら言えば、上記のような無駄な反論を受けずにすみますし、どんどん言ったほうが建設的であると思います。

世の中の評論家の多くは自分が出来ないのに評論対象の苦労を無視した指摘の仕方をするから嫌われるのです。
もちろん「評論家」と呼ばれる人でも自分の立ち位置をわきまえた方はいらっしゃると思いますけどね。

office 氏はどうだったかな…などとつぶやいてみたり:p。

念のためですが、これは指摘する側に対する心構えの話です。
指摘される側は、その言い方や相手によらず、内容をよく聞く姿勢が必要です。

[neko blog: 人を傷つけたくない、だけど]

知らぬうちに人を思いっきり傷つけていることがある。
以前は怖かった。自分の何気ない言葉が、他人に痛みを与えている。時には、人生を大きく変えるくらいの傷を与えているかもしれない。
・・・何もしゃべれないじゃないか。

こういう悩みは多いと思っています。そう考えられるだけまだよいと私は思うんですが^^;。
こちらの記事では「開き直ろう」という意思表示をしていらっしゃいますが、私はほんの少し違う考え方を持っています。

開き直って、人を傷つけるかもしれない/気分を害するかもしれないという気持ちを忘れたくもないと思っているわけでして、つまりどう自分を納得させているかというと、

ポジティブな発言を心がけよう

です。
相手毎に「何を言ったら傷ついちゃうか?」を常に考えながら生きるのは苦痛です。
ポジティブな発言によって傷ついちゃう人も中にはいるでしょうけれど(たとえば鬱系の方とか)、それによって恨まれることはほとんどありません。僻む人はいるかもしれませんが^^;。

もっといえば、人に指図しなければ傷つかれることは無いです。
人が勝手に自分に期待していて、その期待と異なったためがっかりされることはあるかもしれませんが。
他人のために生きているわけではありませんし。


ところで、私自身がそうでもあり、より問題だと思うのは、「自分のなにげない発言が他人の怒り/悲しみを買い、それによって自分が傷つくことへの恐れ」です^^;。この考え方によって萎縮して発言出来なくなるのは恐いです。上記の「人を傷つけたくない」というは建前であり、本質的にはこちらだ、ともいえます。

利他的行動も結局利己である。なぜなら「他」がどう感じるかはわからないのだから。
おいらが自業自得主義であることがこれを書いたことでいっそう明確になりました^^;。

私はこの状態に陥るのを避けるために、普遍的な事実以外については、断定形や特定他人を糾弾する言い方はなるべく避けます。あくまで「自分はこう思う、間違っているかもしれないけれど」というスタンスです。このスタンスで人が傷ついたり怒りだしたりするのは、おかしな話と思うからです。初めから相手が自分を糾弾しようと思っている場合は当てはまりません-_-。


そのうえでさらに、なるべく「ポジティブな考え」を表明するわけです。
心がけとしては損が少ない考え方である、と私は思っています:p。
この辺に書いたように、特に女性に接する際にはこれだけでは足りないんだろうなぁとも思っていますが^^;。


自分が納得できるより良い考え方を発見したら(教えてもらえたら)変えるでしょうけれど。:)

あぁ今日もまとめ下手-_- まだまだ精進が足りん…。

皆さんは「メタ」って言葉をご存じでしょうか?
私の場合は、meta-class といった用語で意義を覚えたクチですが(ってマニアックだな^^;)、最近はメタブログといった用語がどこででも見られるように、「メタ」流行り、かも知れません。まぁもっと昔からメタ議論とかよく言われてましたけど。
特に技術者の中ではよく使われます。

さて、普通の人の中にはメタ議論とか言われてもピンとこない人が結構いらっしゃるのではないかと思います。
これは要するに、「議論の仕方」を議論することです。meta という語は接頭辞として用いられ、「一段下層からみた」或いは「一歩上段に構えた」(?)のようなニュアンスの意味を付加します。あるテーマについて議論している際に、いつの間にか「この言い方は~」とか「主張の表現方法が~」といった話にすり変わっているようなケースで、「メタ議論がされている」などと言います。
メタブログといえば、blog は何かを表現するツールであるにもかかわらず、そこで blog 自身の使い方に関して語られるような事を言います。

他には、たい焼きを製造するという話題に対して、たい焼きの型(鉄のやつね)の製造に関して考える、というのもメタな視点です。技術屋用語としては、インスタンス→クラス→メタクラス→メタメタクラス…というようにメタ化して行くことができます。
「それを形成するために必要なもの」といったところでしょうか。

メタな視点は非常に重要で、論理的思考能力を向上するためには前提となる考え方だと思います。

例えば何かを議論している時に、その議論自体のテーマから離れて、議論の進み方がこれでいいのか?などと考えるのは、将来の効率を高めるために重要です。ただ、それをその議論中に話題に出してしまうと元のテーマが失われます^^;。私はその場で言わないとすぐに忘れちゃう人なので、とりあえず言っておきたくなる人なんですが-_-。

メタな論点は別途議論を行う場を設ける必要があるでしょう。

MLなどを見ていた人としては、「それは別スレッドで話してくれ」となるわけですね。

そんな感じで、突如メタな視点を表明することは議論を混乱させる元になりますが、メタな論点を別個に議論するのは大いにありです。ですから、メタブログ論もおおありなのです。通常の話題をされている所に割り込んでメタブログ論を展開するのはあまりよろしくありませんが。

漫画繋がりでおいらがお薦めする本をもう一つ。

言わずと知れた寄生獣。もしかしたら自分の人生観を変えた本かもしれない。
今思うと人間について考えるようになったきっかけがこれだったかも、と思うし。

人間が変わる方法の一つとして、「自分の起源」「自分の生きている文化の起源」「人間の起源」「生物の起源」といった風に深いところまで考えてみる、というのがあると思う。そして、そこまで考えを及ばせてから、日常や今後の「自分」に考えを戻す。

それは一度やったらもういいかというと実はそうでもない、とも。

ある時点での人生観は、それまでの経験、とくにそれまでに出逢ってきた人、見てきた人に応じて既に変化している。ただ、それを今後のより良い変化に生かすためには、過去にしてきた行動と、「起源」について考え直すという行為が必要じゃないかなぁとふと思ったり。

もちろん毎回「生物の起源」とかまで遡って考える必要はなくて、もっと浅いところまででいいんだけど。

「バガボンド」読んだ時も「話を聞かない男、地図が読めない女」を読んだ時も同じようなことを考えたなぁ…そいえば。で、そのときどきで違った考え方だったなぁ…。
と、なぜか感傷的に終ってみる^^;。

今日はまとめる気力が無い-_-

昨日は気付いたら0時を回っていて東京駅で東海道線の終電に乗りそこね…-_-。
京浜東北線が辛うじてあったので横浜まではたどりついたけど、そこでジ・エンド。
しょうがないので、漫画喫茶で始発まで時間をつぶしたのでした-_-。
自宅はもっと先ってことね。

で、バガボンドなんぞ読んでたり^^;。

こういう漫画が特別に面白いと思うのって、(例によって例の本を読んだ後だけに^^;)男として進化してきたからなんだろうなぁ、と思ったり。女性でバガボンドを面白いと思う人は人間模様とか武蔵や小次郎がかっこいいからとかはあるだろうけど、斬り合いのシーンそのものだけを取っても面白いと思える人は少ないんじゃなかろうか…なんて^^;。

男性が読むと、ストーリー/人間模様/絵に加え、ある種の狂気や勝負/殺し合いのようなものへの心の奥底に眠っている「共感」が呼び起こされて、相乗効果が発生するんではなかろうか?などと感じてしまったのでした。

その感覚がコモンセンスかナンセンスかは調べちゃいないさ:p。ただ、「例の本」なども読んだ上での自分なりの分析。


そして、同様のことは「文化」にも言えるんだろうな、と思った。
今は世界各国で種の交わりが起こっているけれど、ずっと昔は別の国に住んでいる人との交流は無かったわけで、人類はアダムとイブのように一対から派生したわけではなく、同時多発的に発生したと思っているので(多分^^;)、全く異なる文化の中で進化してきた人たちが全く同じなはずがない、と。
つまり外見(肌/髪など)以外にも、もっと根本的な、本能より少し上くらいのレベルで差異があっても当然だよなぁ、と。

そうすると、たとえば日本で生まれ育ったアメリカ人でも、両親が生粋のアメリカ人だと、日本人とは何かが違う可能性は絶対にあるよねぇ。違うからって差別しちゃダメだよん。もちろん。

「違いはない」と自分に言い聞かせるより「違いがある、ただそれだけだけど」と認めるほうが健全だよなぁ、とか思ったり。

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