thought: 2004年3月アーカイブ

ほとんどの人の blog がそうである、と思いますね。本人以外に全記事全コメントを追っている人がいる blog っていくつくらいあるでしょうか…。

それは当たり前、で終わるところなのですが、何というか、ごく主観的な話ではありますが、私の場合、以前はそうでもなく、ある人の Web サイトを隅から隅まで見るということも結構していました。知人あるいは特に尊敬する人。いまでもいくつかはあるので、それらの方のサイトは当人以外にすべてを読んでいる人が一人はいる事になりますが^^;。

要するにチェックしたい対象が増えすぎて、とても「人」を追いかけて全部読むということがしきれないわけですね^^;。

いわゆる巡回対象はあくまで「人」単位なのですが、内容のチェックに関してはかなり好感を持っている人のサイトであっても拾い読みになってしまっています-_-。そういう方、結構いらっしゃったりしませんか?^^;

沢山の人の主張などを見れるようになって、特定の人に着目する度合が減少してしまう危機を感じてしまったり。

私が特別に忙しいだけで、そうでも無いという方ももちろんいらっしゃるとは思いますが…。
でも、新たに見つけた(興味/尊敬の対象となる)方がいても、その方が 3,4年も blog を書き続けていたら、遡って読むという人は何人いるか…?
これ、実は blog のアーカイブの形式次第でいくらか改善できそうな気がしないでもないですが。別の言い方をすれば著者が読者に読ませやすくする努力次第、ですか…。

私のページを全部見ている方はいないような気がします^^;。いたら、教えて^^;
てなわけで、私は、やっぱり記事の大量生産はやめます。個々の記事の個性を重視するやりかたで行きます。(追記)どうも、ここに違和感を感じる方がいそうなので改めます。どっちかというと、現在は閲覧者的視点の方が私的に重要です。

もちろん、ニュース系/日記系のように、過去を遡るより今を見続けてもらえばよいというスタンスの方には全く当てはまりません。私は古い記事も大事にしたいということで、今回のはあくまで自己吐露系です_o_。

だいたい、自分の文章って多い且つ読みにくいので読む気にさせないと思われ-_-。すっきり書けるようになりたいものです…。

で、なんとか格言に持っていきたいんですが^^;、こんな感じ?

Web サイトが自分の集大成だったとしても、伝わるのは一部。

(追記)
おいらが今、開始から全部見れているサイト。開始時から見ているからこそ全部見れているわけですが^^;。
さむうお氏 http://gogo.tea-nifty.com/
白桃氏 http://peach.tea-nifty.com/

お友達サイトなわけですが、最近、ネタが洗練されててマジお薦めできるので、再度ご紹介~。

(追記)
タイトル、変えました^^;;

自分の行為/主張の誤りの可能性が全く頭に浮かばない人がいる。
逆に、とんでもない主張をぶつけられても、なぜそう受け取られたのか、自分がどう変わればうまく対応できるのか、といったことを考えながら対応できる人がいる。

よく吟味しないで発した言葉に対し、「言論の自由」を持ち出して、訂正しない人がいる。

自分のその言葉が出るに至った理由を説明できないのだ。

人間は感情の生き物なので、自分で自分の行動の理由を説明できないことはたくさんある。若いほどたくさんある。
でも、説明を試みることすらできないのは一般に「我が侭」と呼ばれる。言い替えれば「子供」とも。

「大人」になりたいですか?

親切丁寧であることではありません。
辞書的には、「正直であること」であり、自分の気持ちに偽りない言葉は誠実、と言えるわけですが、私は、相手の気持ちを無視していたり、相手にレッテルを貼り、そのレッテルに対して発した言葉が「誠実」とは思えません。
自分の正直な気持ちを「自分はこう考える」と伝えることは誠実です。
また、相手に何か指摘する際に、相手の様々な可能性を考えて発言することは誠実です。

結局のところ、ポジティブ・シンキングというのはマイナスの部分を単に無視しているだけなのだ。だからそれ以上の進歩は望めないことになるし、問題が大きくなっていくだけだ。
近来にない名言である。

効果的なポジティブシンキングのあり方は、ネガティブな要素を乗り越えることに快感を感じるように自分を仕向けることです。 あるいは、不幸に対して「他の人には出来ない経験をした」と思ってみたり、自分の能力の可能性に一生期待し続けたり、「こんなに乗り越えなければならないのか」を「後これだけやればいいんだな」と言い換えるだけのことであったり。

決して不幸や懸念を忘れることではありませんし、能天気を指すわけでもありません。

というわけで、「ポジティブシンキング」という用語をポジティブに受けとるかネガティブに受けとるかでこのように変わるというお話でした。ポジティブシンキングって能天気でしかないじゃない、と言うことで果たして何が生まれるでしょうか?(追記/コメント参照)
でも、人間ってネガティブキャンペーン好きなのよね…。それをよくわかっている人の間では、煽り/ネタと呼ばれたり。ちなみに、ですが 2ch などでは意外とポジティブなキャンペーンの方が盛大な盛り上がりを見せたりします。ゴミ拾いオフとか。そういうのも見ると性善なのか性悪なのか、また悩ましいですねぇ。

話を戻して、誤解を増幅してポジティブシンキングという用語を陥れるより、ポジティブな意味を普及させるような啓蒙の仕方の方がよいのではないかなぁ、とか思ったり。まぁ、ポジティブシンキングという用語の定義自体はよく知らないので、私の方が誤解かもしれませんけどね:p。でもこの解釈で困ることないですし^^;。

(追記)
元の大野さんの発言は、ポジティブを実践している人(?)からみれば侮辱に感じられる面があると思ったわけですが、コメントでのきいのさんのご指摘の通り、「ポジティブでなければいけない」といったようにポジティブ/ネガティブという概念に囚われた方に対して発せられた言葉だろう、というのをよく考えると、こういうアンチテーゼも社会全体を見れば公益になるのかもしれないなぁ、と思いなおしました。
ポジティブな人はポジティブシンキングという言葉を貶されたくらいでショックを受けたりしないですから^^;。

(追記)
むぅ…ニュースさんに掲載していただいたのはいいけど、紹介のされかたが変だなぁ…。
まぁ、どっちに受け取られてもかまわないですけど^^;。

私は話の中に「要するに」「つまり」「結局」がとにかく多い。10分のうちに10回以上使っている部分が何箇所もあった。ほとんどは、なくても意味が通じる。これは今後、意識して直した方がよさそうと思った。歩き回ったり、身体を傾けると見栄えがよくないことも知る。
著者が現代人の濫用として槍玉に挙げる言葉に、「やはり」「要するに」「とりあえず」「逆に」「ある意味」「基本的に」がある。これらの言葉が本来の意味を持たずに話されることが多いというのだ。正直、耳が痛い。私も該当者だから。なくても、意味が通るのに使ってしまうことが多い。

私は「つまり」とか「要するに」を多用する人です。でもそれは確信犯です。自分が言語認識力のあるほうではないので、特に会話の場合は、一度耳を通るだけではきちんと頭に入りにくいのです。ですから、幾通りかの表現で何回か言ってもらえるほうが嬉しく、自分が何か言う時もそれを気をつけている、と。本当は、自分の言葉で言い直して確認する(してくれる)ほうが好みですが、相手がそういう行動を取らず、理解度合いが測れない場合は言い直さざるを得ません。ちなみに私はすぐにそうやって確認しようとするわけですが、それが相手の言葉を遮る結果になったりもして、やはり難しい所ではありますね。

でも、本当は、考えながらしゃべっていたりして、しゃべっている途中でより良い表現を思いついては、「つまり、~」と言ってしまうことも。で、「つまり」以降が元の表現と比べて全然詰まっていない、とか^^;。この場合は「言い換えると」と正しく言わねばですね。

文章ではどうでしょう。文章なら読み返すことができるし、書く側も推敲ができるので、正確に記述できていれば厳密には「つまり/要するに」は全く不要ということになりますね。でも、やっぱりどの表現が最も理解が早いかは聞き手/読み手次第ですし、読み流されることを避ける為というのもあり、「つまり」で複数の表現を用いたりします。

と、こういった感想は「濫用」というキーワードのみに反応した場合なんですが、私、「かなり気がかりな日本語」の方を読みました。中身を見て上記がどういうことを言っているかが解ったんですが、上記した通り、「要するに」と言っていながらその先が要約になっていないじゃないか、というツッコミだったのでした。さらには、上記のような「言い換えると」の意味ですらなく、前後の文の関連がなくても繋ぎとして使われるようなこともあるそうで。そういう状況を指して濫用と書かれていると解り、ちょっとほっとしたり^^;。

要するに、「要するに」の利用回数が問題なわけではないということですね。

私は、「要するに」をうまく使える/使おうと努力する人は、文章を短く表現する能力が鍛えられていると思います。もちろん、それを繰り返すうちに自分にとってのベストの表現方法が定まってゆき、年とともに「要するに」の利用頻度が下がっていくのかな、とは思いますが。

P.S.
させていただく」についてももちろん触れられていました。私の文章で多用している"と"とか"が"には触れられてなかったかな?^^;
「基本的に」も。これは私もうっかり誤用していたことがあったような…^^;。(もちろん本当に"基本的"ならいいんですよ)
ところでこの本自体の感想ですが、正直言って、神経質に過ぎます。「来週」を「翌週」と呼ぶのはどうか?とか。でも外国人に日本語を教えるという著者の立場からすると、現代日本語についてはがゆく思う気持ちはよくわかりました。

(追記) 2005/06/01
「要するに」と言いつつ長い説明を書いてしまう心情について。

実際には、今言いたいことを説明するにはもっともっと書かないと通じないんだろうけれど、説明するのがめんどくさいと思っているときに発せられるのだなぁ、と。
要するに:p、詳しく説明し始めたんだけど途中で挫折したときに、それまでに書いたものを破棄するのもなんだから、ってことで言い直すときの区切りに使う。

上では「言い換えると」に相当する、と書いたけど、実はそうでもなくて、「書かなかったこれこれ」に対して「要するに」と言っているのだ、と。そういうことなんだな、と思うと、それはそれでそういう心情を発露しているのだということで一つの情報になるので別にいいのではないかなぁ、と思うようになった。

人間は心の奥底で教祖様を欲しているように思う。
神様もそうだけど、いわゆるカリスマの元に集まってコミュニティを形成しようとすることもよくある。

私は神様も宗教も大嫌いな「自分で切り開け」君であり、「人を尊敬はすれど傾倒はしない」をモットーにしている。
その理由は、「俺についてこい」系のカリスマは、自立への妨げになると思っているから。
あるいは単に他者に依存していると、いなくなった、或いは裏切られた時に見動き取れなくなるのが嫌なだけかもしれない。

カリスマにはいくつかの種類がある。

直接のコミュニケーション無しでも羨望の目を向けられる何らかの能力者。
特別な技能があるわけではないが大衆の共感に訴えるのが得意なコミュニケーション強者。
救いの手を差し伸べようとする神様タイプ。

この世の中で生きていくためには人心の掌握は大変重要であり、教祖様(カリスマ)になれる人が得だ。
自分もそれは努力目標の一つとしている。

しかし、たとえそうなれるのだとしても、人の面倒を見てやると言ってしまうようなカリスマにはなりたくない。人が自分の力で自分のしたいことを成し遂げられるように、小さなきっかけを与えられる人間になれたらと思う。

自分や自分のアイデアが受け入れられるかを一生試す。
人をコントロールしようとしたらだめだ。

でも、世の中にはコントロールされたがっている人も多い…。

ニュースサイトさんのおかげで「全人類が blog を持つ日」が結構沢山の方に読まれつつあります。
時期的には数週間前の記事だったんですが、そういうものでも取り上げていただけるということが解り、嬉しいです。

新しい主張(単により前にその主張があったかもしれないことを知らないだけですが)であったとしても、それを見て他の方に広めてくれる誰かがいないとしょうがないんだなぁ、というのを実感した出来事でもあります。

さて、とにかく見てくださる方が増えると、意見の数も増えて、補足したいことが出てきますね。該当記事自体に関する内容は該当記事中またはトラックバック先のコメントでだいたい記したのですが、関連して少し違う話題をこちらに。"blog" と表記していますがこれは便宜であり、「更新通知機能を持った簡易な自己表現ツール」と捉えていただけたらと思います。
ここに記すネタは、「全人類が blog を持つ日」への反応(リンク元含む)か、或いはそれを見て感じた自分の感覚です。

反応の中で特徴的なのは、以下の点です。

  1. そもそも blog 人口比が全体の何パーセントまで上昇するのか?
  2. 将来増加した blogger の間で blog とは何と認識されるのか?
  3. blog 人口が増加するとノイズばかりになるだけではないか?

1 ですが、せいぜい 10~20% がいいところだろうと思います。ですから、「全人類が」というのは誇張/煽りであり、私の期待でしかありません。でも、全人類の20%もの人が blog を持てば相当にマイナーな意見も参照可能になるでしょうね。

2 が今の私的に最も気がかりな所です。blog という名前である必要はないのですが、有事の際など、当人が貴重な体験をしたことを知らせたい or どこかに報告したいと思った時に、各自が気楽に報告できる場であるということが周知されていて欲しいなぁと思います。
「気楽」さは「自分のノートのようなもの」という日記的側面により、他のツールより容易に周知ができるのではないかと期待しています。後は、ブラウザなり携帯なりで記事を投稿する手段を極限まで簡易化できるとよいですね。電話投稿が発明され、普及すればこの認識が結構促進されそう。

さて、そうして blog が誰でもいつでも起稿できる状況になったとすると、次は、(既にそうなりつつありますが)ノイズの増大(3)です。

ノイズは確実に増加しますが、先に記した通り、マイナーで普通の人には絶対書けないようなレポートや意見も確実に増えます。ノイズは新たにノイズを書く人が現れたとしても全体としての比率が増えたに過ぎませんが、貴重な意見(その人にしか言えない意見)は、0 だったのが 1 になるわけですから母集合の拡大は明らかにプラスであると思います。

では、光る情報をどうやって獲得するか?それが更新通知と、その情報を利用した検索、そして母集合の増大によって上昇する「目の数」です。

細かな主張は既に元記事で書きましたけれど、ここに挙げた可能性は更新通知を持つ blog という形態以前では考えられなかったことだと思います。

さて…ここで怪しいのは、いくら「目の数」が増えても、ノイズがそれを圧倒するだけの絶対量に達してしまうと、いくら更新通知機能があっても見つけてもらえない可能性があるということでしょうか…冒頭での感想も関連しそうですね。

ヘタからはじめるイラスト日記
のコメントでも書いたのですが、ボランティア個人ニュースサイトというのは、ますます苦境に立たされる気がします。そろそろ、職業として個人の意見を拾い集めてピックアップする人が現れてもよい気がしますね。もちろん編者の感性に依存することになりますが、それを避けるためにはピックアップサイトが多様化して「多数の目」になればよいわけで。

(追記)
Similarity Search で見つけた
週末起業ブログ!: 潜在意識とブログ
ですが、私は、少なくともいわゆる一般層に対しては、blog をどうやって使おうか/何を書こうか探し求める必要はないだろうなぁ、と思います。もちろんどうビジネスに生かすかを考えることを否定する意見ではないです。:)
「ブログ」飽きたらやめる、何か問題でも?
にも似たような趣旨を書いたかも^^;。いつか、「これを伝えねば」ということができるかもしれませんね~。

Genxx.blog* : 罫線つきノートやBlogは思考の仕方を強制する

こちらの記事を読ませていただいて、ふと(自分のやってる)インターポットの事を思い浮かべてしまった。
インターポットではユーザの土地毎に「看板」というのがあって、それは自身の掲示板といえるものなんですが、その編集画面は「白紙とペン」状態です。

看板

ユーザはこの看板をベースにコミュニケーションするわけですが、時として「この看板だからこそ」と思える表現があって、他のコミュニケーションツールとは全く違った楽しさがあります。
ちょっとサイズが小さいのが難点ではありますが^^;。あ、上記画像は縮小してますよ。

イメージ掲示板みたいなのも世の中にはたくさんあると思うんですが、大抵のものはスタンプなどの「見栄えをよくする替わりに個性を無くす」機能が搭載されていますので、それらもまた思考様式を強制する効果を持っているように思います。

まぁ、インターポットにおいても外部の画像を転写するツールなどをユーザが開発したりしているので、似たような状況になっている面もあるかもしれませんが、もともとの看板への落書き機能がいつまでたっても拡張されない所には、思考/表現方法の制限をかけたくない思いがあるのかもしれないなぁ、とふと思ったりしたのでした。

内容的にトラックバックすべきか迷いますが、こんなものもあるということで~。

はい。いまさらコメントのしようもないかな、と^^;。以前「指摘と怒りをはき違えないように」とも「指導と(以下同文)」とも書いたし。

あと、最近特に気にしているのが「批判」と「指摘」の違い。主張の誤りに対する「事実の指摘」にはトゲがありません。
「批判」には次のようなニュアンスが含まれる場合があります。

ひはん 0 【批判】

(名)スル
(1)物事の可否に検討を加え、評価・判定すること。
「学説―」「―を仰ぐ」
(2)誤っている点やよくない点を指摘し、あげつらうこと
「政府の外交方針を―する」
(3)〔哲〕〔(ドイツ) Kritik〕人間の知識や思想・行為などについて、その意味内容の成立する基礎を把握することにより、その起源・妥当性・限界などを明らかにすること。


なるべく、「事実の指摘」(フォローも含むので「誤りの指摘」と表現していません)に抑えたいところ。でも、タイトルに書いたように、感情に基づく「不満」といえどもそれを当人に伝えるのは良いことと思います。その時、感情をぶつけるのではなく「~ような主張/物言いでは~のような気分になる人も多いのではないですか?」とか少し客観的になって当人に理解してもらおうという態度で挑むことができればよいんだろうなぁ、と。

ただ、単に「誤り」では済まされない無責任な態度、ということで誤り/事実の指摘に留まらない人格批判になることがあります。これは、主張をする人の立場によっては、仕方がないのかなと思います。望んでのこととは限らず、主張の怪しさが人格批判に結びつくような立場になってしまい、そのような批判を受け入れざるを得ないだけの責任が発生してしまう、と。Web 上で主張する、ということは公園談義と比較すれば断然そのような方向なわけで。

そんな訳で、このサイトも始めた当初と比べると文章のニュアンスが変わりつつあります。誰に読まれるかわからなくなるほどに、慎重さ(※)が増しているわけです。そこに気を使うのがやだ、という人が「儀礼的無関心」のターゲットですか:p。

※この「慎重さ」は、母集合が大きくなるほどに何を言う人がいるかわからなくなる、という事に関するものです。この件は別途書こうと思っています。

批判された側としては、誤りを指摘された際はその表現を度外視して誠実な対応ができればと思うわけですが、おまけを付けて返したくなるのが人間、ですか^^;。

メタメタブログ。

Tokyo Forum: 「メタブログ」の背景を知る
いつもツッコマブルな記事をありがとうございます。:)

メタブログを始めとするメタ議論は、それがもし本来別に語ることがある人が論じだすと、あるいは考え出すと、本来語ることについて考える時間を削ぐ要素であるのは確かです。それが蔑視されたり、メタブログ論に「陥る」といった表現で言われる理由。

meta な視点は重要ですが、それは object をよりよくするための物であるはずです。

メタブログって言葉どおりなら上記の目的、すばわちより良い環境を目指すための議論のことを指すに過ぎないのですが、どうもその言葉自体に似非評論家のイメージを持たれてしまう状況があるようですね…-_-。

例えば、人間が人間について言及するメタな行為を「哲学」といいます。高尚でしょ(笑 だから、メタだからといって否定的になることはないです。

そうですよねぇ。何しろこのサイトは philosophical ですから:p。

「メタブログとは」というメタメタブログ論も混沌としているようですけれど、こちらは一定のコンセサスが得られるはずと思っていたのに、どうも蒸し返されますねぇ。「大上段に構えているようで嫌だ」「べき論になってしまうのがメタ議論だ」と揶揄する方が現れます。「べき論」を始めてしまうと不毛な盛り上がりを見せるので煽りたい向きには最適ではあるのですが。ツッコマブルの典型ですね。(追記)"ツッコマブル"という言葉自体は単に「反響を呼ぶ」程度の意味です、念のため。

メタブログは上記に記した(誤記訂正^^;)上に記した通り、ブログを使っている人/ブログシステムについて論じていることだけを指すはずなのに、その論じ方の一部を見て蔑視する方がいらっしゃいます。実際私も似非評論家は嫌ですが。

これは、ある言葉の定義として、言葉から読み取れる以上の意味を付与しようとした途端に発生する永遠の課題ではあります。

ブログとは?メタブログとは?オープンソースとは?:p

既に「メタブログ」という言葉も元の言葉どおりの意味から離れて多義性を持つに到ったのでしょうね。そうなってくると、互いに異なる前提(言葉の定義)の上で論争を始めることになって、不毛とされる議論に終始するんでしょうね。
もう何も修飾しない「メタブログ」という言葉は安易に使えないのでしょうか…。
或いは逆に、meta という接頭辞自体の持つ曖昧さがもたらす悲劇かも。あるテーマについて話す人自体を指したり前提を指したり表現方法を指したり。
例えばブログ上でブログの使い方を論じることはメタブログですが、ブログ上で論じられるテーマがメタブログであるなぁ、などと論じることもメタブログです。後者は「自己言及」ではないように思うので、そこで「メタブログ」と「自己言及」の違いが出てくるのかな。で、後者は大上段に構えていて嫌だ、と感じ、前者は不毛だなぁ、と感じられてしまう、と。ふむふむ。

と、まぁメタ議論は「べき論であるか?」とかに関して論じる行為はメタメタメタ論になるわけですが、そうやってメタ化していくのも問題解決に当たっては絶対必要なことです。通常、よりメタなレイヤ程答えが単純化(*)されます。そして、一段メタな部分を解決し、それを前提として object について考えるのです。
メタ論が始まるのは、一つには、今話されていることの前提に疑問を感じるから、と言えるかもしれません。だから、「それは前提だ」と思っている人との間で平行線になったりします。

*:(追記)リンク先が不適切でした。こちらの方がいくらかマシかなと思うけど、どうもそもそも「メタなレイヤ程答えが単純化」に関してはまだ自分が言及してなかったかも_o_。


そうすると、次は「では、この表現形態のあるべき姿とはどのようなものだろうか」という思考が働き

こうなってしまう方はいらっしゃるのかもしれませんが、こういう思考が根底にあると忌み嫌われますね。
私はこう考えます。

「この表現形態はこういう特性があるのね。ふむふむ。ならこう使えばより効率的だな。」

自分がそうしようと思うだけなのか、人に強制しようとしているかの違いでしかないと思うんですがどうでしょう?

というわけで、自分が過去に書いた記事へのリンク集的な記事でした。
…それにしてもやっぱり論旨をまとめるのが下手だな…おいら-_-。確かにまだもやもやしてるかも。自己言及論なのかコミュニティ論なのかを明確に分離すればよさそうだな。でも、この駄文も将来自分の意見をより明確に表現するための布石/訓練と思って公開っ^^;。


※"meta" の対義語がわからなかった(元が接頭辞だし)ので、メタな視点から見ての"meta"の付かない対象のことを "object" と表現してみました。適切な用語を知っている方、教えてください_o_。

参考:Kodama's World, Late May 98
哲学、ですねぇ^^;。あ、念のため、直接上記話題に関連するわけではないです_o_。

要求分析」の続きです。
今回カテゴリ分けも出来ないくらいまとまりありません^^;。一応続き記事ということで「格言・思想」に入れますけど。
もうね、こんな方向までネタを持っていくと対象読者がどういう人なんだかわけわかめ状態だな^^;;。それでも一応他業種にも通じる話に持っていこうと努力はしてるつもりですが…。

現在は、ある程度の規模の開発になると分析を行った人がプロジェクトが終るまで在籍していることが少ないですが、これは相当に(それこそ日本中探しても何十人もいない程度に)「仕事」ができる人でなければプロジェクトにとって大きなマイナスであると常々思っています。

顧客から得た要求(そしてその目的)の全てに加え、分析者の知識と経験に基づく判断まで含めてすべてドキュメントとしてまとめるのは不可能です。そして、たとえそれが出来たとしてもその膨大なドキュメントを後の担当者に読ませ、理解させている時間は通常ありません。

ソフトウェア開発においても工業生産と同じような分業&作業の単純化が推進されていた時代がありましたが、もうそろそろそのやり方ではだめだと気付かれつつある…はずなんですが。

未だにソフトウェア技術者を交換可能と考えている組織は多いようです。

プログラマ一人という単位で見ても、職人変われば思想も変わるので、いなくなると元のプログラムの意図はなかなか読み取れないでしょうけれど、もっとひどい場合は、最初に顧客と接して要求を聞き出した人が実装フェーズ(実際にプログラムを書く段階)には誰一人残っていないなんていうプロジェクトもあるようです。

顧客との折衝や質問を行う担当者は前担当者の意思と知識を引き継ぐことはできず、顧客に対して既に何度もされた質問をまた行います。前担当者が残したドキュメントは新担当者のドキュメントと重複が多くなり、且つ微妙に異なっているため、それを読まされる設計/実装担当者は混乱するだけでなく、幾度となく繰り返される徒労に飽き飽きしてますますドキュメントを読まなくなります。

規約で縛ろうとしても無理でしょう。

どうすればよいか?

各自の責任感を最大限に引き出せるプロジェクト体制にすることです
要求を聞いた人は顧客に変わって、或いは顧客も引っ張り出して設計のレビューに参加すべきです。
設計を行った人は(実装担当のスキルによっては)ソースレビューまで参加すべきです。
もっともよいのは、分析/設計/実装を同一人物が行うことです:p。
人数が多いプロジェクトであれば、最高の分析技術者を据えて、その人に最後まで面倒を見てもらうことです。
知識/ノウハウの伝達ができればよいですが、それすら難しいし、なにより能力は伝達できないからです

また、プロジェクトメンバー全員の目的がプロジェクトの終了(完成、もっと言えば成功)であることを実感させることです
「ここに書かれた通りにプログラムを書けばいいんだよ」なんて事をやっていたら手抜きされます。あるいは「そこに書かれたこと」の不備に業を煮やしたプログラマは逃げだします。

ところで、世の中には SE なる職種が存在するそうです。System Engineer だそうで。
私の名刺にも System Engineer って書いてるような気もしますが、うちの場合肩書きに何書いてもいいので「育児担当」でもよかったのです。

世の中的には要求分析から設計あたりまでを担当する人、らしいです。
プログラムを組めないのに SE という職種を目指す人がいたりするそうです。不思議なことに。
本質的にプログラミングというのは一人で最初から最後までできる人間がやることです。

まぁ、逆にプログラマーという職種を作業員と勘違いしている上役(或いはプログラマー本人)もいるようですが-_-。

追伸
コンサルタントという職種も SE と同じ怪しさがありますが、こちらはより「提案」や「人(の配備など)」に重きを置いていたりするので、さすがに要求されるセンスが違います。でも、自分でやってみたら大変かもしれないことを平気で提案してしまうなんちゃってコンサルが多いですね。

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