thought: 2004年4月アーカイブ

批判/批判の受け止め方関連その2です。後でまとめようと思っていますが、インターネットで情報発信する際の勘違い集という形で挙げていっています。まぁたいていのことはインターネットに限定されませんけど。

自分の自由を主張することには躍起であるが、他人の自由なんて知ったこっちゃない、という考え方は世の中にそこそこはびこっているといえるでしょう。我が侭です。我が侭には論理や感性による説得は通用しません。他人の痛みが解らないからですね。それもひとつの感性ではあるわけですけれど。

以前、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という思考実験に少し参加したのですが(その結論は当然の如く出ていないのですが^^;)、「(自分は死にたくないけど)人を殺したってべつにいいでしょ?」「殺したいから殺したんだよ、なぜ悪いんだよっ」みたいな人にどうすれば理解してもらうことができるでしょうか?

「自分は死を恐れていないから」どころではなく、何をどう言っても他人の痛みを実感することができないタイプ-_-。

もちろんここまでの人にはなかなかお目にかかれませんが、インターネットでは現実世界よりもタガがはずれる傾向があるらしく、これに近い無理解も見つけることができたりします。旅の恥はかき捨て、インターネットの恥は書き捨て、ですね。(追記)やべやべ、字、間違えてた^^;。書き捨てないようにしよう。

私的な「大人」の定義のひとつとして、以下のようなものがあります。

小さい頃は他人の痛みを知ることができなかった。
大人になると他人の痛みも知るように、あるいは知らなければならないようになる。

そして今は、大きくなっても他人の痛みを知ることができない大きな子供が増えつつある時代

恥をなんとも思わない人がいます。それはそれで何かを生み出す能力に転化させている方もいらっしゃるし、私から見ればすばらしいことと思ったりもするのですが(私は本質的にはたぶん臆病者^^;)、恥だけでなく他人の痛みまで忘れないようにしたいですね。

インターネットでわりと見かける「他人を中傷していることに(言われてもなお)気づけない人」は、「いじめをする人」と同じ心理な気がします。「からかってるだけだよ/ネタだよ。何でごちゃごちゃ言うんだよ。」と。そういう人に気づかせようとしても、きっとしらけられるだけなのでしょうね。

これから数回に分けて、「批判の受け止め方と批判行為」について書こうと思います。

あらかじめ書いておきます。当記事は感性を否定するものではありませんが中傷を否定するものです。

まず、「批評/批判と中傷の違い」について書いておきます。簡単なことですね。根拠があるかないかです。

人間は陰口が好きなようです。当事者に知らせずに人に関する評価/感想を述べあうという行為は日常的に行われています。ただ、そういう行為全般を陰口とは呼ばないですけどね。通常、陰口とは当人に見えないところで当人の悪口を言う(中傷する)ことであり、当人に聞かれることが後ろめたいと自覚しているような話題を指します。また、特にここでは中傷に該当しない根拠を伴った評価の場合は、当人に見えないところで言っていても陰口とは呼ばないことにします。

私は、陰口は嫌いなので、基本的には当人に聞かれても堂々と対応できるようなことしか言わないように心がけています。例外は、当人の今後の思考/行動に悪影響を及ぼすような内容だが、相談しておく価値のあること、といった場合です。教育をする人の立場を想像すればご理解いただけるかと思います。もちろん中傷のつもりはないのでそれを当人に聞かれても自分は後ろめたくはありません。

さて、web 日記/blog などは「公開日記」であるわけですが、そこで他人を侮辱/中傷するようなことを書いていながら、都合よく「公開」であることの意味を忘れて「個人の日記だから何言ってもいいだろ」といったことを言ってしまう方がいます。

もちろん発言自体は自由です。

でも、内容によっては反論が発生することも必然ですし、何より反論することも自由です。

反論に応えない自由はありますが、反論するなというのはあまりにも周りが見えていない言説です。反論が欲しくないのであればインターネット上に他人への侮辱発言を「公開」してはいけません。「現実世界で普通にしゃべるのと同じくらい気楽に書くんだ」と言っている方、気をつけて下さい。

ネット上に書くということは既に陰口足り得ません。

ここで、反論には、感性/思想の違いから来るものと、事実ではない、あるいはミスリードであるといった指摘があるのですが、前者を不要と考えるのは(多少もったいないこととは思いますが)自由と思います。ここで話題にしているのは後者です。これについては反省すべきでしょう。たまに自分への批判を矮小化するために意図的に混同しようとする人がいます。

日記の中でぼそっと、集団、或いはひどい時は個人を特定できるような言い方で、状況をよく知らないで、或いはメディアの誘導に乗せられて批判を行うということがあります。その行為自体も問題ではありますが、全ての人にそれを駄目だと言うのはあまりに狭量であるとも思います。私もよく調べずに批判的情報発信を行う事もあるでしょうし、説明できない感情の表出も重要な情報だと思っていますから。ただ、批判された側あるいは客観的に見ている第三者が、その批判は間違いである、と指摘/反論することは当然のごとくあり得ます。この反論を指して「噛みつかれた」などと侮辱する人がいます。この勘違いはやめたほうがよいです。たとえ相手に通知などをしていなかったとしても、噛みついたのは自分です。また、批判が発生しないことがあるのは、その言説が正しいからとは限りません。みんな、すべての誤りを指摘して回るほど暇じゃないのです。
(追記)「同意の旨の意見はあった」という多数決論理を持ちだす人もいますが、たまたま自分と同様に専門家で無かったか、単に自分と馴れ合いたい人かもしれませんよ、と。和を保つことと馴れ合うことは違います。これはいつしか別記事にて。

この記事では個人や集団は特定しません。行為を特定しています。思い当たる人でこの主張に間違いが見当たらないと思われたなら、自戒しましょう。この記事の内容が誤りであると思ったなら、どうぞご指摘ください。

なぁんていっても、ここで書いたようなことにもろに該当する人ほど自己正当化が激しかったりするので書いてもなかなか効果がないわけですが。ならばなぜこういう記事を書くかというと、良識のある方が道を踏み外さないよう再認識してくださるという効果はあるからです。本当は自分に向けて/自己の思想の整理という意味が一番強いというのはいつも書いている通りなのですが、教条度を上げて書いてみる実験です^^;。

今「blog で簡単にホームページを」という類いのキャッチコピーに乗せられて参入してくる方は、どれくらいが「全世界に公開」の意味を解っているんでしょうね。それを知らなかった/考えられなかったことは罪では無いと思います。批判を浴びた時に気付けるのであれば。ここで問題点として、騒ぎになるほどに指摘/批判に混じって中傷が現れるのも世の常なわけですが、全てを中傷とみなす自己中心的思考はやめましょう。

ただ、人は本質的に陰口が好き(※1)なわけで、web で陰口を言える仕組み(※2)というのを考えたりしています^^;。私は使いたくないですけど。

※1:私だって、陰口が嫌いと言うのは理性で抑えているのであって、いつ無意識に陰口に該当する行為をしてしまうか解ったものじゃありません。そういうのを正してくれるコミュニティなら属したいですね~。

※2:2ch がそういう使われ方をする場と勘違いしている人が多いですが、2ch でも中傷は嫌われます(ここではネタと中傷の区別というまた難しい問題があったりしますが^^;)。ただ「根拠をうまく説明できないがこう感じる」といった正当かもしれない意見を述べるのに適しているということです。

参考:
思い込み(=レッテル)と批判と紛争

ネタ元を失念しましたが_o_、おそらく 2ch のどこかで見た言葉。

上を目指し、下を微笑ましく思っておけばよいではないですか。

などと言ってもそうでないのが人間なんでしょうか…。

私はというとそういう人たちも自由だと思っているので、
そう思っていること自体には問題を感じないわけですが、
非努力家のための世の中になってきていることは
ひしひしと感じていたりします。

思うことは自由ですが、努力を貶さないようにしましょう。
筋が違うならそれを教えてあげればいい。

言われた側は、批判と中傷の違いを区別できるようにがんばりましょう。
言った側は、それが的外れである可能性を念頭に置いておきましょう。

当たり前だと思っていたが…。

助けようとするのは当然。
無知を諭し、事実や知識を伝えようとするのは当然。

知った上でどう行動するのかは自己の判断であり、その結果の責は自身が負う。
無知に対して自己責任を問えることはほとんどない。
また、自己責任は全てではない。周りの人間が、あるいは拡大解釈すれば社会が助けることができなかったことにも責任は少なからずある。自己責任の原則は自分自身の心構えとして用いるものである。

少なくとも無知を知らせる努力をしていない、或いはその人の行動で相応の迷惑を被っていない人が他人を責める材料にはならない。

(追記)
そろそろ書き足しとこっと^^;。
自己の責任を棚に上げて他人を責めたり馬鹿にしたりする人が、そのことを批判されるのは当たり前。
そもそも責任論は空しいばかりってことさね。
原因追求は良いこと。でもその目的は責任のありどころを見つけてそこを責めることではないでしょう。
責めるという手段は選択肢の一つとしてはあるけれどね。

(追記)
KANWAKYUDAI::Blog: 「自己責任」
世の中で言われている「自己責任」の意味。
ちなみに当記事は当然ながら我流解釈です。
"at your own risk" には「責任転嫁」というニュアンスは感じないなぁ。
「無責任」ではあるかもしれないけれど。
要するに、「自分が責任を取れ」というよりは、「他人のせいにするなよ」という考え方でしょ。

以前 MyClip もした記事「ブログとネットの心理学」に関して。

 公開で何かを記すことは自己説得の効果を持つ。
 この意見には異論もあるかもしれないな、と考えて記したことでも、どこからも異論がないままに過ごされると「俺の考えは正しかったんだ」と思い込むようになることがある。単に無視されている結果であったとしても、無視を賛同なのだと解釈したりする。加えて自分はこういう意見を持つパーソナリティなのだと自分にレッテルを貼ることにもつながる。独り 集団成極化現象みたいなもん。
:
 知識の差が一と百あったとすれば、一のほうは百が何を言っているのかさっぱりわからないだろうし、百のほうは一に何を伝えるにしても背景の知識まで含めて伝えようとするとものすごい手間と徒労がかかるのでどうにもそこまでかまっていられなかったりする。
 触れてもつながれない。違う人とはつながりにくい。
 いきおいブログにおいても似たものが集まり階層・知識のタコツボ化&集団成極化現象が生じる。

そして、お互いにレッテルを貼り合うわけですね~。
批判が無かったからといって、自分の意見が正しいと思いこんではいけません。
また、批判を無視しても私の勝手でしょ、と思いこんではいけません。

まぁ、「いけません」って別に禁止という意味ではなく、するのは自由ですが一般的にカッコわるいだろうってだけですけどね。自分に向けた言葉ですので。価値観の問題と言われればそうでしょうね。他人に迷惑さえかけていなければ。
(追記)
意見が多数に脹れ上がった場合、全ての意見に答える必要はありません。しかしそれを許すのは第三者であって、本人が許してはいけないでしょう。本人は「答えるべきだけれど答えられず申し訳無い」という心意気を忘れてはいけないと思います。それこそが発言に対する責任であるとも。そうしないと、思い込みは進行するばかりです。


で、このあたりの価値観(認識のバックグラウンド)を共にするもの同士がコミュニティ化していったりするわけですが、得てして相手のコミュニティとの紛争の元を発生させるのが、「批判を無視しても私の勝手でしょ」と考える側なのですね。なぜなら紛争の元になっていることを「気付けない」上、指摘を「徹底的に無視」あるいは「ウザイ」という便利な言葉で一刀両断しますから。もちろん百を知る側も一の側を過度に馬鹿にしてはいけないと思います。可能であれば無知を知らせてあげたいところ。でもそう思っていても、「ウザイ」と思われるのならしないですよね。

注意:一/百といった関係はテーマごとにいくらでも逆転しますし変動します。その時自分がどちらがわにいるかを意識する必要があります。そして、「自分は百である」と思いこんではいけません。

「無知」が罪とみなされるか否かには境界線があり、あまりに差があり過ぎるととても教え切れない、それくらいは勉強しておけ、ということになります。この境界線が各自によって異なるのがまた問題で、さらにはその無知に対する指摘方法について、「どのようにするのが親切であるか」の基準も、受け手/伝え手それぞれで異なってしまっている。この両者が紛争無しに理解し合える確率は相当低いといってよいでしょう。

前の記事で予告した「批判への対応」に関するテーマを書く前にひとまずここまでで公開。

なお、私はコンピュータ技術に関しては一応それでご飯を食べているのでプロということになりますが、それ以外に特に「専門」はありません。感覚で書いていますし、誤りもあるでしょう。誤りをご指摘いただけると嬉しいし、それが blog をやっている目的でもありますが、指摘が無かったからといって正しいとは限らない、というのは意識しております。

(追記)
当記事で出した「ウザイ」ですが、これはそう感じた人にとって「ノイズ」であったということです。で、その件に関しては集団コミュニケーションにおけるノイズの定義にて記事を書いています。
当事者からすれば的外れな「ウザイ」という感想こそ「ウザイ」わけです。的を外していないと思うのであれば説明責任を果たすか、それが面倒なら 2ch に行くのが賢明ですね~。
参考:2ch の価値に関するコメント
「2ch の価値」について記事を書こうかな…。

あ、今思いついたこと。
「ウザイ」という感想はいつもメタな視点で語られる
内容そのものは見ないで言う人が多いですね。
あぁ…メタを分析する行為は有用なのになぁ…。

以前予告したという事で^^;、現在の自分に至る経緯みたいなものを書いてみようと思います。予告時のテーマは「ポジティブ/ネガティブに悩む人」等でしたが、元々ネガティブな思考が無かったので、ポジティブ/ネガティブに悩む方にとって参考になるかどうかは怪しいですが-_-。

元々ネガティブでは無かったとはいえ、私は 7,8年前くらいまでは積極的なほうではありませんでした。特に自分を高めるといった事にはあんまり興味を持っていませんでした。なので他の精力的な方と比較してかなり出遅れたと思っています。

なるようになるでしょ、今のままで十分稼いで食べていけるし、といった思考だったのでしょう。コンピュータをいじる事に関しては長かったので、他の方がなかなか出来ない様を見て「まだ大丈夫」と思いこんでいたり。
それでも後輩に抜かれるようなことは無いようにという最低限の意地は持っていましたが。

変わるきっかけはインターネットを始めたことです。1997年終盤くらい。当時人気がでてきて、実務に導入されはじめていた Java の仕事をやるという事で会社で導入して間もないインターネットを使って調べ物を始めたことでした。そこで何を得たか?

想像に難くないでしょうけれど、すごい人たちがいっぱいいるという事を知ったのです。井の外をのぞき見したわけです。「自分以外はバカ」なんてとんでもありません。そこで行われていたのは自分の理解のはるかに上を行く議論でした。そうするとさすがに危機感を覚えます。「この人たちとしゃべるには知識/論理のバックグラウンドが無さ過ぎる」と。相手が普通に語る事を理解するのに精一杯で、自分の意見を出すのが恥ずかしくなるという。でも、実際には得てして本当にすごい人ほど権威にしがみつかず、会話しやすい方が多いし、萎縮してほしくないと思っている方がほとんどです。

私は、この人たちと議論がしてみたい、と思いました。さて、その「やりたいこと」を実現するためにどうすればいいでしょう?ここで私は一つの選択をしました。選択といってもザイオンかトリニティーか?といった難解な選択ではありません。おそらく自明といえるほど簡単な選択です。やりたい事を実現するためには何らかの能力または知識が必要になるでしょう。そこで取り得る選択肢は、

能力を獲得する苦労をするか、能力を獲得せずに苦労をするか?

です。もちろん目的を達成するのに必要なものが、「"この"能力しかあり得ない」ということはないです。正面からではなく横から攻めることができるかもしれません。ただ私はどちらかというと正面から行く道を選んだんですね。

で、それなりに勉強して、まずは初心者質問に答えるようにしました。それによって、文章力と現状の Java への理解度が足りているか試しました。後は自分の理解できるレベルの話題から、議論にも参加しだしました。自分がある程度主張に確信を持っているものから始めて、徐々に答えの無いような話題にも参加するように。

そして、コミュニティに属していると必然的に発生するコミュニティ論についても考えるようになり、現在は如何にも答えの出る事のない「人」「感情」に関する話題にまで首を突っ込んでたまに苦しむわけです^^;。

なんでこんなことするんでしょうね…?おそらくコミュニティについて観察するようになった頃から、自分の人間性を高めることが自分にとって絶対的に得で、自分が傷つかないもっともよい方法が、人徳者になることだ、と思うようになったんだと思います。今の私的哲学は、客観視によって何が必要かが分かり、自分を得な方向へ誘導することができる、といったところでしょうか。あと、自分以外の99%の人間には尊敬に値するものがある、ということです(ここの含みは伝わるだろうか^^;)。

えーっと、これって今の自分になる経緯は語っていても、ポジティブになる方法は全然語れていませんな…-_-。私のきっかけは危機感だったわけですが、ネガティブに悩む方は、生き方に危機を感じた時に、もうダメだ、と思ってしまう…んですかね…?やっぱりこちらに書いたように、「自分の能力の可能性に一生期待する」のがよいのではないだろうか…。とりあえず私はかなり出遅れたと思っています。皆さんが出遅れているとは思えません。私はポジティブなだけで、能力はまだまだ不足していますし、自分のある種の能力の限界も概ね見えていますが、まだ伸ばせる能力もあると思っています。んで、ある程度能力が付いてきたら絶対に自信も生まれますよ(※)。自信を確認したい/或いは自信がなくなるような事があった時には、ちょっとだけ井戸の底を覗き見すればいいんです:p。ただ、そこ(底)を見て安心するのではなく、自分はそこに行きたいのか?を自問自答しないと、抜け出せなくなるかもですが^^;。

※ってか、能力が付く事が目的化しちゃってたり^^;。

さて、他の方は、すごい能力を持った人を見た時にどう感じるものなんでしょう…?多くは、ふーん、で終わりでしょうか…?お聞きしたいものです。

参考:
誰かと応対する時、いつでも「他人同士の応対を観察する」ような第三者視点を持とう
言いたいこと言ってて人が動いてくれるなら、あなたは人徳者。 でも言いたいこと言えずに気を使いまくってても望みは叶わない
危機は変化へのきっかけ、希望は変化への後押し
ってか、自分の考えはここに集約されてるか…。

書く側も読む側もそう。

自分の考えを補強/否定してくれる資料探し。でも、書籍などの資料漁りとは違って、そのような考え方をする人探し。
blog を bookmark する/RSS reader で subscribe するといった行為は特にそういうものだと捉えている。その人との直接のコミュニケーションは、発生するかもしれないが副次的なもの。著者側の視点に立つと、アクセスがあること自体が共感であると思いこみたいわけである。その先にある対話をさらに望むことはもちろんあるが、その場合、おそらくそこそこ多くの人が望まない批判勢力との論争とも対峙しなければならない(私はそれも望むけど^^;※)。だから、限定的な対話を望む人が多数いる。(用法を誤っているので使いたくないが、今や状況を指すだけなら最も通じやすい用語となってしまった)儀礼的無関心を望む人。

…という考え方もある&私は積極的にそうしている。そして、それは実は「Web を通して人と繋がる」と考える人の根底にも存在する可能性が高いのではないか。


なぁんて、また煽りタイトルで超べたべたなメタ論を書いてみたり^^;。「web 全て」いっしょくたに語るつもりはないです、もちろん_o_。blog になって、対話的コミュニケーションの可能性がどんどん主張されていくけど、本質的にはテレビなどと同様であり、そしてテレビ/書籍などより人を身近に感じることができるため、共感しやすい、ということです。「身近」はフィードバックのしやすさから来るものであり、blog は今まで掲示板など別の場所でなされていた(それでも他のメディアより楽だった)フィードバックをより直接的にしたということで、実際にフィードバックするかとは無関係に共感のしやすさを増幅したけれど、やっぱりそこから始まる対話的コミュニケーションって副次的効果だなぁ、と。要するに、過度に閲覧者にコメントなどを望んでも、たぶんなかなかそうはならないだろう、と。
タイトルは「常に/多くの人は~探しているのではない」とするほうが正確ですが、それってあまりにも当たり前過ぎて、自分の言いたいことを伝えるのに足りないと思ったわけです。すみません。一応、格言風にしたかったというのもあり^^;。

あと、「blog はコミュニケーションツールだ」なんて言説あるんですか?という正しい認識の人にとっては、やはりあたり前な話と思います。

※中傷とは対峙したくないですね。批判は歓迎~。

注意:もちろん"コミュニケーション"は bookmark した時点で成り立つ、下手したら見た時点で成り立つ、とする考え方もあり、その観点で言えば上記も「コミュニケーションを探している」と言えるし、そのことを指して言っている人もいると思う。この文章の文脈においてはコミュニケーション=著者と読者の直接の対話、としている。

…読み返さずに公開っ^^;;。
(で、とりあえずの追記)コミュニケーションを求めることを否定する類いの記事ではない(つもり)です。そこんとこを強調しときました^^;。ってか、木村剛さん関係のオフ会、時間があれば行きたかったし^^;。

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