thought: 2004年10月アーカイブ

以前「つまり/要するにをうまく使おう」といった記事も書いたことがありますが、世の中にはうまくない「要するに」が氾濫しているのが実情です。その辺に付いて私見を。

まぁ言うまでもないことかもしれませんが「要するに」という言い回しには表裏一体の意義があり、要するに:p「例外/詳細を吟味せずに断じる」面と、「大筋を解りやすく説明する」面がある、ということです。

他人の説明を聞いたときに当人に確認するために「要するにこういうことでしょうか?」と聞いたり、自分が説明する立場のときに「要するにこうこうということと言って差し支えないです」と述べるのは、重要で価値あることです。

他人の言葉に対して「要するにこいつはこう言っているんだよ」とか言っちゃう人が多いわけですね。他人の意見が他人にそう簡単に要約できるわけがないのに。まぁ私もあくまで私見を述べる場では「彼は要するにこういう思考で言ってるんだと思いますよ」といったことは言いますけど、(明言しているかにかかわらず)「思いますよ」というところに「私見」であるという明示があるわけです。

こうやって自己弁護するくらいだから、他の多くの方も「私見」のつもりでそのように言うことは多数あるのだと思っていますが、中にはやけに自信ありげに他人を断じる人がいます。そういうのが似非評論家です。

まぁ、都度都度「あくまで自分がそう思っているだけだ」と前置きするはずもないけれど、自分も似非評論家状態になっていることはあるよなぁ、と自戒も込めつつ。


似非評論家で別にいいやん、とも思うし、そういう視点に立つと一概に「悪い使い方」と言えるものでもないのですが、まぁ個人的にはかっこ悪いし好かれる態度ではないと思っているので、気持ちを新たにするためにも書き留めておこうかと。
と言うわけで、格言。

他人を要約できるはずがない

muse-A-muse より。
はてな 「社会のために」などと言いますが、人はなぜ他人の為に生きなければならないのでしょうか。一方、そのことに対して幸せを感じることもあります。その幸せの理由や「他人のために」の意義を教えて下さい。自分は哲学や心理学に対してズブの素人なので専門的な回答はツライつらいんですが、客観的な回答をお願いします。できれば秩序や経済的な合理性などではなく、「哲学っぽい」回答を期待しています。素人臭くてすみません・・・

客観的調査も勉強も0の思ったままなのでこっちに書いてみたり^^;。確かさはまったく検証していません。

「情」があるから。他者の喜びが自分の喜びになることは「共感」ですが、共感に基づく利他的行動は「自分のため」。「他人のため」の利他的行動は「情」ですね。

ということは、共感のほうは比較的説明しやすいわけですが、情(m_um_u さんの例だと猫を可愛がる感情とか)はやはり謎。謎の感情だけど人間に最初から組み込まれている。

ただ一つ思うのは、ボランティア(特に似非)などは対象への共感とは違う部分で行動しており、一見「情」で動いているように見えるけれど、明らかに利己的行動なんだよなぁ。(情でボランティアをされている方ももちろんいますが)

ボランティアをやった自分に酔うために(あるいはもっと打算的に)ボランティアをする、ということもかなり多いと思います。このあたりは本能とは違って社会的にそうすることが自分にとって益であると暗黙のうちに刷り込まれてそうなるのかな、と。「ボランティアでもしてみなさい」とか言われたこと、ありませんか?

まぁ、そうやってでもボランティアをさせることで、本来の「情」を呼び起こさせようというのが狙いなわけで、実際にボランティアをやって情が移るケースが多いのでそのこと自体はまったく構わないわけですが、たまにいつまでたっても情が表れない「自分に酔う/他者からの評価」だけ、という人もいますねー。

というわけで、まずは「情」とそれ以外を分離してみる。
「情」そのものについては分析不能な気もするけれどまたいつか思考実験してみよう^^;。

(追記)
ono さんから以前重要な指摘をいただいていたことを忘れていました_o_。

ちょっとうろ覚えで危ういのですが、囚人のジレンマ、ゲーム理論あのあたりはご存じですよね。
で長期にわたる競争の場合、利他行動がもっともメリットがあるという結論になるわけですが、あれもともとは生物学者の発見なんですよ。
で種の保存(仲間の保存)のために生き物は基本的に利他行動を取るわけなんですが、仲間殺しをするのは、利他行動を取らない連中(仲間)を排除する。
ゲーム理論そのまんま(爆)
非協力者には非協力でお返しする ってわけです。
よーでけたぁんなぁ。

「情」とは違う視点での利他行動の根拠です。
生物学的な利他行動は昆虫などを見れば明らかで、人間にも絶対に存在するものだろうと思います。それに加えて「情」が存在するなぁ、とも思います。

「人のよいところをどんどん見つけよう」キャンペーン
というページがあります。ポジティブで良いですねー(と、良いところをまずは見つけておく^^;)。
Other Voices(2004-01) -Poesia の 2004/01/07 から辿りました。
私、後者の加納さんのおっしゃることと同じようなわずかながらの違和感を感じた人です。
人格に対する「よいところ」というのは微妙な言葉で、もともと自分の考え方を見直すためのキャンペーンとはいえ、ちょっと離れて考えると、他人に対して「良い人レッテルを貼ろうとする運動」という見方もできてしまいます。


前者中で、「よかった探しリース」というものが参照されています。こちらは違和感なくよさげー、と感じたりするのです。私がひねくれ者なんですけど^^;。

事実の受け止め方を見直すことや見逃していた事実を見つけることは大変有意義と思います。ただ、他人の人格は想像によるところが大きく、「人のよい所を探す」というテーマに拘って、虚構を作り出すことのないように注意する必要があるかな、と思います。つまり、「良いところ」ではなく「良かったこと」と考える方が自分もすっきり納得できるのではないかと。「良いところ探し」というキャンペーン自体はすばらしいと思います。参加される方の意識が「どんな人でも良いところを見つけなければ」という強迫観念にさえならなければ、ということですね。

カテゴリに合わせて一応身勝手格言。

良い人であるかは想像するしかないが、事実が自分にとって良かったかははっきりと自覚できる

関連:ポジティブシンキングに関する誤解

このアーカイブについて

このページには、2004年10月以降に書かれたブログ記事のうちthoughtカテゴリに属しているものが含まれています。

前のアーカイブはthought: 2004年9月です。

次のアーカイブはthought: 2004年12月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。