thought: 2005年7月アーカイブ

人類が持つ感情システムは、生存競争に勝ち残るために有効に作用していたと思われます。つまり「感情が発露しない」というのは脆弱な状態だと言えると思います。

これを読んで、思いつきで。 生存競争に勝ち残るために感情システムが最善であったかが疑問です。今現在の人類が持つ感情システムが有効に働いていることは正ですけれど。 合理的思考能力が発達していれば感情が限りなくなくても生き抜けるであろうと思います。例えば群れを作る昆虫などは一種の感情で行動しているとも言えるかもしれません。一番想像しやすいのは「恐怖」という感情。これは、生き抜くために合理的な行動を取らないと「怖い」からそういう行動を取っているのであって、それが合理的と適切に判断できる思考能力がもしあった場合は、「恐怖」は不要と言えるかもしれない、と。生物が完成されていないがゆえに、「不毛な恐怖」も存在して、恐怖のせいで非合理的な行動を起こしてしまうこともあり、実際そういう行動を取るものが淘汰されていくということもあった/あると思います。

上記の「恐怖」は人間の感情における恐怖とは異なり、「本能による支配」に当たります。人間は「本能」が退化してその分(本能が wrap された)感情と知恵で生き延びてきました。

感情による「卑しさ」がなければ闘争は起こらないかもしれませんが、競争も起こらない。そうすると、種の進化が止まってしまい生き残れないかもしれません。

しかし、ずっと未来には、知恵だけで生き延びていく世代が現れないとも限りません。合理的に競争を行う種。

「合理的」というのは便利な言葉で、ある意味うまくいくことが全て「合理的」ともいえてしまうものですが、実際その通りで、感情優先の人とうまくやっていくテクニックを使うことも「合理的」と呼べます。モヒカン族の「合理的」がそこまで達しているかは微妙です。

本能に基づく合理的行動→感情に基づく合理的行動→知恵に基づく合理的行動

「感情」は進化でもあり退化でもありますが、「知恵」はどうなるでしょうねぇ。

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ところで、モヒカン族がらみの言及ついでですが、誤解されている方がいそうな気がするので書くと、そもそもモチベーションを最重要視する所からも解るように、モヒカン族も根っこは感情で動きます。現在の人間からはまだ感情は排除されえません。ただ、モヒカン族の感情は、物を作る等の手を動かすことに関して重要視され、情報伝達や判断においては(建前としては)重要視されません。情報に感情を含めることを避けようとするあまり、ぶっきらぼうに見えたりいやらしく見えたりしますが。

中規模以上のプロジェクト運用の秘訣
に書いたことの焼き直し格言。
管理者の立場に立ってこそ実感する…はずなんですけどね。
さて、顧客の感情(満足)は当然として、開発者(プログラマ)の感情についてですが、開発者は大抵ほうっておいても生産的活動を勝手にするのでほうっておければ一番良いのですが、やはり人間ということと、技術力の差の問題により、規約や進捗管理などで縛る必要はあります。良くできた開発者はそれらもほうっておいてもできるんですけどね。
で、しぶしぶ一見面倒そうだけど管理上必要な作業などをお願いしたりするケース(*)が出てくると思いますが、それを行う意義を納得してもらわないと、最終的に好きなようにやらせるよりも全体の成果が出ないということが起こってきます。

(*)のような作業の意義について、管理者自身は理解できているでしょうか?あるいは理解できていたとしても、それが必須であることを理由に目的化して、まず管理ありきになっていないでしょうか?どちらにせよ、「管理」を嬉々としてやるような人がよく開発者の槍玉に上がります。開発者がある規約の意義についてたずねた時に管理者が期限を悪くするようだとプロジェクトはどうなるでしょうか?管理者は気分で管理してはなりません。開発者の気分を害してはいけません。それがマネジメントってもんです。

管理者の作戦として、開発者を怒らせることで動かす、という高等戦術もありますが、これは本当に高等戦術です。管理者の役割って、子供をしつける親みたいなものです。子供を叱ることはあっても怒るのは十分にその結果を考えた結果でしょう。親は我が侭な子供を躾けつつ、子供が遊びの中から見つける新しいことを微笑ましく思いながら成長を見守るものです。子供の怒りに怒りで返すのではなく納得を与える。そして、いざというときにはきちんと責任を取る。

理想としては、管理者は開発者を信頼して、責任だけは取る、という態度でしょう。信頼できる開発者を自分で手配できない環境の管理者は厳しいですねぇ。

特にコメントするところもないですが、蛇足的に書くならば。
人間は何らかのきっかけで自分を変えることはできる。しかし他者を変えることはできない。他者に対してできるのは気づかせることのみ。その気づきをきっかけとして他者が変わることはありえるが、絶対に「変える」ことはできないのだ、と。

関連:人は人と巡り逢うことでいくつになっても自分を変えることができる

3ToheiLog: 武士道のゆくえと、トマトジュースの缶
大変読み応えがあります。
それが武士道、という例はすごく面白いです。そこから「サラリーマンは武士道」と展開するところも。強い上昇指向があるが、それは限定された範囲内で技を突き詰める方向へ向く、あるいは、パターン化された任務を確実にこなす、といったところですかね。
そして今の流行である(*)、コミュニケーション能力(=対人能力)とかを駆使して広い世界の何かと何かを繋ぐような仕事は「商人的」である、としています。

*:「流行」というのは?だけどまぁ自分はそうである

真の武士は主君が暗君であると知っても任務を全うするかもしれませんが、「世の中全体から見た自分」を知り/考えてしまうと、幸福ではなくなることも大いにありえるでしょう。

商人は、職人に、「意義・目的意識」を与えるけれども、一方で「職人の武士道」を破壊する面も持っている。

武士道が「足ることを知る」とすましているためには、檻の外を見てはいけない、という制約が必要になる。
つまり、日々研鑽を積んでいる横に、いい女抱いて酒飲みながら葉巻吸っている奴が居ると、結構あっさりとピンチになる。そんな檻の外の快楽に脇目を振ってはいけないのだ。
なのに商人は、「あいつの武士道」と「こいつの武士道」を、冷酷にくらべっこしてしまう。評価してしまう。で、それに基づいて報酬を与える。
外からの評価を気にしたら武士道は終わりだ。カメラ目線を飛ばす武士は、もはや武士ではない。日光江戸村の役者だ。
商人のささやき声によって、檻の外を見るようになると、檻にはヒビが入っていく。

だが、世界の進歩(正しくは「変化」)が加速するのは、明らかに、商人のおかげだ。コラボレーションは競争を生み、競争は加速して、商人の定義する「勝ち組、負け組」の差を作っていく。
江戸時代ってのも、そうやって崩壊して行った。

深い!!続く文も大変興味深いです。是非ご一読を。

ただし、「おだててもらって、檻に閉じこもる」ことが許される(=武士が武士として仕えていればよいという状況にしてもらえる)にはそれなりの実力(実際には「実績」)が必要だというジレンマもあります。武士はどうして武士になれたのか?

Gairon2003-body
おいらクリップに溜めておいたのを読みました。面白かったのでこちらにて。
バーナム効果は要するに、占いや心理テストにおいてはあたりさわりのないことを言っておけば、人は当たった、と思ってくれるということです。こういうこと、嫁さんとかに言うと怒り出すんだよなぁ^^;。その際の論理は「信じたいから信じるんだ。信じようとしている気分に水を差すな」です。あとに述べられている世論調査系でもまったく同じ現象があります。まぁ占い程度であれば当然自由なんですけどね。でもそういった占い系言説を根拠に人を攻撃しだすと困ります。で、以下に続くわけですが。

メディアの誤りで怖いのは、誤った情報がコピーされて流通していくにつれて、次第に、社会のなかで、信頼すべき情報の地位をえて、情報源を確認してみようとすらしなくなることである。メディアの擬似現実ではなく、偽造現実になってしまう。哲学者のウィトゲンスタインは、「同じ新聞を何部も買って情報の確からしさがましたと思う男」という警句をはいているが、われわれもその男とたいして変わらない。税金天国のはなしは、お笑いですむかもしれないが、事件や戦争などについての報道での誤報はお笑いではすまされなくなる。北朝鮮を地上の楽園として紹介した報道。湾岸戦争での油まみれの海鳥。等々。メディアで情報提示がくりかえされるうちに、確かな現実の地位を得てしまう。われわれは、メディアの提供する擬似環境のなかで意志決定し行動する。しかしわれわれが行動をおこなうのはメディアのなかではない。偽造現実を信じて歩いていると、その下に隠された現実の落とし穴に落ちてしまうこともある。


南京虐殺とか、歴史関係はいろいろねー。必要なのは信用しない心意気。
モヒカン族(*1)のメンタリティの基礎はこの「信用しないこと」(*2)なので、モヒカン族はあらゆる主張に対してまず懐疑的な視点で見ます。そして、人の話や提案に疑問/懸念をぶつけては、「何でケチつけるんだよ!!」と言われるのです。

*1:以前はこういうことを言うときに「技術者に多い」と言っていたけれど、ある意味より直接的な言葉が割りあたったといえるかもしれない。言葉から意味が取りにくいし、他の意味でも用いられているようなのでこの意味で定着しない可能性も高いけれど。
*2:自分すらも、であるところが重要。

で、モヒカン族ばっかりだと社会的なポジティブな運動は起こりえなくなってしまうので、非モヒカン族というのはすごく重要。というか、モヒカン族は物は生み出すけれど(*3)洗脳は得意ではない(はず)。根拠なきポジティブさや偽善というのも、より大きな動きを作るには絶対必要なもので、モヒカンはやっぱり異端でなければならないでしょうね。

*3:物を生み出さずに貶すしかできない似非モヒカン族もいますが、批評は成果物の一つです。

偽善にもいろいろあって、わたしゃ自分がやりたいと思う限りは偽善どんどんいこう派なのですが、それはもともと「絶対善」が存在しなくて所詮自己満足であることを知っているから。で、こんな話が。

というロジックをよくアイドルのファンサイトで見かける。具体的にはジャニーズとか。 大体そういうところでは「愛」が免罪符なのがタチが悪い。「タレントへの愛がある」から「こんな悪口を言っても許される」とか。 本来は「自分が好きだから」応援しているはずなのに、先にタレントがくるというのはおかしい。「自分のために応援している」と書いたあるファンサイトでは、「何でタレントのためじゃないんですか」と抗議をされたそうだ。

やはり「自己満足」を自覚しない偽善はどんどんたちの悪いものになっていくという例ですねぇ。 押し付けがましくなっちゃいかん。ま、自分に攻撃(押し付け)が来ない限りは勝手にやって、の範疇だけど。

批判家って、ある対象への評価を変えるときに、必ず「~はよくなった」「だめになった」みたいに言うんだけど、実際のところ自分の評価基準のほうが変わっただけのケースと半々だよなぁ。
そんなわけで、

自分は普遍的と思い込む/思いたいバイアスの存在を自覚することが重要

バイアスを切り離すことはできないけどさ。

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